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現代音楽家の日記
by alfred_61 CD発売特設サイト
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実は今日5/17の日付で、現地時間の17時半開演のとある演奏会で、僕の曲"Night Flight"をパーカッションカルテットに編曲した物が演奏されました。この演奏会はこの春頃・・・もう1ヶ月強前になるのですが、突然亡くなったジョンの友人でもあり僕とジョンと同じインディアナ大学出身の打楽器教授の為のメモリアルコンサートでした。この方の突然の訃報により、ジョンは後任者としてカリフォルニア大学カルポリー校で打楽器の教授をすることになったのです。 ジョンが初めてパーカッションアンサンブルを指導して教えた曲は僕の曲でした。ジョンが日々知らせてくれるリハーサルの進捗からは、学生達が拙いながらも必死に頑張っている様や、僕の曲を通じてアンサンブルや音楽そのものの楽しみを全身で感じているのが伝わってきました。作曲者としては本当に嬉しい話です。 4日後の21日にも、今度は大学のホールで打楽器科主催のコンサートがあり、そこでも"Night Flight"は再演されます。ジョンの計画ではそのあとエンジニアを呼んできて録音セッションを行い、その録音ときちんと清書された編曲版の楽譜を、アメリカの打楽器協会に送って出版して貰える組織や事業者と繋げて貰おうと考えているようです。出版されたからと言って楽譜が売れなければただの肩書きとかいう下らないゴミにしかなりませんし、まあ売れたと言っても僕は多少の印税が都度入ってくるだけで、別にそこから大事業に発展するわけでもなく、偉くなるわけでもなく、何ともなりません。ただ、ジョンは「別にやっても何も損はしないだろう」といつもの調子でさっさと話を進めています。本当に彼には色々と助けて貰っています。 5月が今までにないほど忙しいのは実は理由がありまして、それはまだここではご報告することは出来ないのですが、更新頻度は多分今まで最低になると思います。今もこれを書いているのは実は明け方(4時前)で、8時には仕事に行きます。ジョンとのやりとりは本当に嬉しい日々の糧です。彼との夏の企画の話もあるのですが、それもまだここではかけないことだらけで・・・何ともね。そんなこんなでなかなか更新出来ませんが、書きたいことは沢山あります。記事だけは溜めてあるので落ち着いたら更新していきます。 本当に今更ですが、実は1月にカリフォルニアを訪れたとき、1日かけてジョンのお父さんが経営している牧場の広大な敷地を二人で歩いたことがありました。状況次第では野犬や熊なども出るということで、万が一を考えてジョンが猟銃を持ち、二人で獣道のような所を歩きました。その中でジョンとお父さんが建てた小屋で僕がピアノを即興で弾いた話は1月の記事に書きましたが、実はこの日、ジョンに猟銃の使い方を教わって、生まれて初めて射撃をしました。 使ったのは高性能な物でも何でもなく、ただのごく一般的に田舎町で使われているような肩に当てて構えるタイプの猟銃でした。それを、池の対岸にある的の描かれたドラム缶(立っている場所からの距離は約150ヤード、137.2メートル。)を狙ってお互いに5発ずつ撃ちました。僕は1発目で銃の照準と実際に飛ぶ場所を確認するためドラム缶の下地面ギリギリを狙い、次に的までの距離と重力の関係を感じる為にドラム缶の上ギリギリを狙い2発撃ち、そしてあとの2発をドラム缶のど真ん中に当てて缶を貫通させました。これが、僕の生まれて初めての射撃でした。 ジョンには何度も銃を持つことは怖くないかとか、緊張しないかとか聞かれました。多分それがアメリカでは普通のやりとりなのでしょうが、僕にとってはそんなに特別なことには感じられないと僕は答えました。だって、その猟銃を人に向けて撃つことは当然出来ますが、人に向けて銃を撃つことも、人を守るために銃を撃つことも、別に日常的に僕たち人間のほとんどが社会という組織でやっていることと何ら変わらないと僕は思うからです。僕は受け取った銃を使うために5発という規制を受け、それでどうすればいいかを冷静に考えて行動しました。手も震えず、ドキドキもしませんでした。 銃=危険や死というのは、なんでしょうか、そう考えるなら今自分が車道から5メートル離れている歩道を歩いているかそこから5メートル車側へ飛び出すかの感覚と、僕にとっては大きく変わらないのです。暴発するかも知れない銃を手に持っているのと、大都市で車を運転するのと、そんなに違うことでしょうか?すぐそこに死があるかもしれない状況は同じでしょう。銃も車もただの道具。使うのは人次第。社会に生きている限り危険の無い空間も時間も世界には存在しないのです。 あとは銃を手にした自分が死というものをどう捉えているかだけだと僕は思います。人が生まれ、人が死に、そんな連続で出来ている社会という所に僕たちは生きています。だって、料理をするのに包丁を使わない人はいないでしょう。包丁は武器にも当然なります。包丁の扱い次第では誤って自分の指を切り落としてしまうことだって当然あり得ます。僕は料理が趣味ですが、毎日料理をするときには、今日の料理の最中に自分が左手の人差し指を切り落としたら音楽家としての人生は終わるな、と考えながら料理をします。本当に毎日そう考えながら野菜を切ります。 僕は美味しいという喜びのために包丁を使って命を殺め(魚とかね。)料理を作りそれを食べて生きています。銃を持って緊張する位なら包丁も握れないでしょう。ほんっとうに下らない話ですが、ヴァイオリンを弾いているときに弦がネック側で切れてそれが張力の反動で弾き手の左目に直撃して失明したということもあったと、初めてヴァイオリンを習った先生から僕はきいたことがあります。本当かどうかは別として、「そんなことあり得ない」とは誰にも言い切れないわけで、人生なんてそんなものだと僕はそもそも考えています。 あの日はそんなことがあったから、自分の中にある感情を小屋のピアノで弾くことが止まらなかったのかもしれません。あの日、どうしても音が溢れて、自分はそれを指で鍵盤を押さえることで表現するしかなかったのです。即興演奏が出来ることは凄いことだとか良く言われますが、僕にとってはどちらかというと人生そのものが生きていることそれ自体が常に音楽を演奏しているのとあまり変わらないと考えているので、即興演奏をすることに苦を感じたことは生まれて初めてそれをしたときから一度もありません。初めて猟銃を撃った時と同じように。 僕が音楽を作るとき、奏でるとき、絶対に考えることがあります。それは、人の生き死にに非常に近い所にあるモノで、なんというか表現しがたいのですが、自分が極限の状態になった時、自分ではない誰かがそうなったとき、誰かが生まれるとき、死ぬとき、その時に自分が今現在演奏している音楽も、作っている音楽も、決してその意味や存在価値が一瞬にして無くなってしまわないように、そんなことを考えるのです。 1つあるのは、音楽に対して絶対に嘘をつかないこと。音楽の前では醜い自分もすべてあるがまま、飾らず、卑下せず、過小せず、自然なままを表現することを心がけます。昔は僕はこれを作曲に対してしか出来なかったのですが、最近演奏の方でも同じことが出来るようになってきました。それは、概念の忘却です。 これはこういうモノ、自分がこの音楽でこういう風に有名になって、スケール、音楽理論、歴史、等の雑念ですね。基本的に、目の前にある楽譜に書かれていることに対し、自分はそれを敬虔に信仰する教徒であるという立場を忘れないように心がけています。音程が狂うことよりも、リズムが狂うことよりも、そんなことよりももっと大切な表現しなければいけないことが楽譜には書かれています。どんなに音を乱しても、そこの表現だけは絶対に失わないように努力しているつもりです。 僕にとって曲作りも演奏も、それはどちらかというと祈りに近いものであって、決して食事、仕事、社交など実生活に近いことではありません。ただし、この祈りにはどうしても心身の健康が必要となり、いくら晴れた暖かい日だとしても心や身体が祈ることの出来ない状態にあるならば、僕は自宅での"練習"に勤しみ、決して人の前では演奏しません。 疲れ切った自分でその祈りの行為を行うのは、音楽に対する冒涜であると僕は信じています。やるからには自分が満足できる祈りをしたいのです。僕の音楽は決して人に対して誇れるモノではないと僕は考えています。僕は人に対して音楽をしているとは言えない音楽家だからだと思います。僕は音楽に対する信仰心を最優先として音楽をしています。それが結果として聴く人に幸を響かせることが出来るなら、それは理想です。ただ、人に幸を響かせるために音楽をしているのではないのです。例え自宅で料理をしながら口ずさむメロディーであっても、それが僕にとっての祈りなのです。 実は、この理由で僕は"歌詞"を作るのが非常に苦手です。何故なら、どんな言葉を選んでも音に対して失礼だと感じてしまうからです。SOUND GATE ZEROのPiece 4は音符としては完成しました。あとはヴォーカルパートに歌詞をつけるだけなのですが、書いた音符を歌うのに言葉を載せる、というのがどうにも"納得"出来ないのです。もちろんこの曲に関して、ですが。 英語で書いた歌詞を逆さまに読んだものを1つ、候補として出していますが、それではどうしても英語の韻や抑揚を音符よりも優先して考えているように感じてしまうのです。だから、少なくとも抑揚の少ない日本語に元の歌詞を訳して、それを逆さまにしたものを2つめの候補としてこれから書いてみようと考えています。 音楽に意味をつける、なんて僕にはとてもじゃないですが畏れ多くて出来ないのです。自分の声という楽器で音楽の祈りを行うためにはどうすればいいのか、それがここ最近僕がぶち当たっている壁です。これを越えないことにはSOUND GATE ZEROは形になることはありません。 久しぶりに真面目に作曲の話をします。長い曲と短い曲が世の中には存在しますが、その"違い"ってなんなのか、制作者側は分かっていてもリスナーにはどうしても見えない部分がありますよね。単刀直入に言うと、"短く生きる人生"か"長く生きる人生"かの違いです。 人生の生き方は人それぞれです。"生き急ぐ"という言葉は日本語では割とメジャーですが、肉体を酷使しすぎて若くして志し半ばに亡くなる人というのはいつの時代にもいます。逆に、人生で起こる出来事を一つ一つ噛みしめながら、しかし人としての成長もゆっくり一歩ずつ踏みしめて長い時間をかけて"生き急ぐ"人の一生と同じくらいの内容の人生を生きる人もいます。 自分がまだ幼かった頃、自分の人生が5年後10年後、果たして1年後にさえどうなっているのか、どうなるのか、どうなりたいのか、そんなことは考えようとしても考えることが出来ないほど幼かったですし、だからこそ幼い自分はそんなことを考えずに一日一日がすべてのように生きていました。だから、一日一日、一時間一秒がとても長かったのです。そこに幼い自分はすべてをかけて生きていたからです。誰しも、そんな"短く生きる"生き方を経験して来たはずです。 年をとって、短期間での変化の連続に肉体も精神も限界を感じるようになると人は"長く生きる"ように努力を始めます。健康に気を遣うようになり、危険を予測したり、5年後10年後の自分を考えたりします。昔の出来事を思い出して懐かしんだり出来るのは長く生きてきた人だけなんですけどね。 短い曲には、1分1秒への比重が幼少期の自分のようにとても重くなっています。長い曲では時間の経過と共に起こる出来事の流れがゆっくりしていて、一つ一つをきちんと噛みしめて感じ、それぞれの出来事の繋がり部分でしっかりと納得し一呼吸置いて次の出来事へ向かう準備が出来る"間"などもとられていることがあります。 短い曲には当然ながら時間の制約があるので詰め込めることには限界があります。もちろん長い曲でもいつかは終わるわけですからそこにも容量の限界というものはあります。短く生きるから輝く人生もあれば、長くじっくり時間をかけるからこそ味わえる感動ももちろんあります。どちらが良いとか悪いとかいう話ではなく、ただ"Different"なだけです。それはそれ、これはこれ。 僕は長い曲を書くのが得意、と大学時代にはさんざん学友達から言われ続け、時には「お前は短い曲を書くことがそもそも出来るのか?」とさえ言われたほどでした。とはいえ、僕も1分半しかない曲を書いたりもしたんですよ、在学中に。単純な話で、僕はあの頃は長く生きたくて仕方がなかった、言い換えればあそこで死にたくなかっただけです。だから自分の理想を音楽という形で具現化しようとし、長い曲に憧れそればかり書いていたのです。死線に近づいた人間のとった行動なんてそんなものです。 本当に自己満足などうでも良いネタばらしをしますと、実はあの頃から、自分の人生の中で書いた曲のなかにタロットカードの大アルカナ22枚のタイトルがどこかに含まれる曲がちりばめられていて、僕の死後にそれらを繋げて演奏すると実は大きな一つの曲になっている、ということを、まだ継続してやっていたりします。ちなみに、2012年現在で存在するタイトルは"Death"、"Tower"、"Stars"、"Moon"、"Sun"、そして"World"です。まあ、どうでもいいことですけどね。今回の記事の内容からちょっと逸脱しますね。 世の中にある長い曲がわかりにくいのは当たり前。それは長く生きてきた人により共感を持たれるからです。若い人に支持されるのが短い曲なのは当然のこと。まあ、それだけのことです。
僕のヴァイオリンは1999年にドイツ・へフナー社のピュフ・オットーというヴァイオリン職人によって作られたものです。出来たて新品の当時にそれまで使っていたビギナー用から脱却するために購入しました。購入当時に、その後オーケストラなんかでも弾くから楽譜が入る大きいケースが良いと、楽器とセットで購入した青いケースなのですが、長年の旅や酷使の疲労からとうとう肩掛けの付け根がケース本体から外れかかっている状態で、今のままでは支え無しに肩掛けで持つのは万が一ストラップが外れた時を考えると怖くて仕方が無かったのです。 そんなことが起こったら、"運が良くて"駒が割れます。運が悪ければ本体が割れます。特に僕の楽器は背面が一枚板のタイプなので、ま~あ本体がやられたらもう終わりでしょうね。そんな状況でせっかく暖かい日でもバラ園へ行かない日が数日ありまして、もういい加減にケースを買いに昨日、梅田にある大きな弦楽器専門店を初めて訪れました。もちろん楽器同伴で。 僕の楽器には駒に取り付けるタイプのピックアップとそのジャック挿入口が付いているので、それごと収まるケースでなければ困るのです。まさか毎回駒にピックアップを取り付けるなんて、楽器本体を傷つけるリスクが高すぎて出来ません。あと、何故か近年の法律改正に伴って大きいヴァイオリンケースでさえも飛行機の機内に手荷物として持ち込めない場合があるんです。楽譜を大量に持ち歩くこともなくなりましたし、この際楽器しか入らない小さいタイプが良いなと思い、色々物色していました。 ヴァイオリンケースなんて機能性第一で、デザインなんてはっきり言ってどうでも良いです。少なくとも僕は奏者としてそう考えています。本体を保護する為のクッション部の材質(特にネックを固定する部分)、肩当てと楽器ががちゃがちゃ当たらないこと、弓の収納部にある衝撃緩衝用の隙間の大きさなど、かなり細かくチェックしました。色々と新人さんっぽい女性店員さんに都度裏方へ聞きにいって貰いながら(多分良く弾く人が来るよりもこれから始める人を応対されているんでしょうね・・・)、多少値段ははりましたが自分的に手を加えれば何とか納得出来る物を購入しました。 ついでに肩当てとE弦用のチューニング金具を新調し、帰宅すると早速ケースに向かって工作しました。気に入らなかったのは弓の下部を固定する部分にある隙間でした。ケースと弓が完全にぴったりくっつく感じだとそれはそれで問題なんですよね。逃げ場所がないと弓に衝撃が伝わって曲がったりするんですよ。でも、新しいケースの隙間はそれにしても広すぎたのです。これは傷つくな、と思うレベルの広さだったので、分厚いフェルト生地を手頃な大きさにカットして穴を開け固定具に通して、ちょうど良い隙間を作ってやりました。 しかしまあ、本当はここに写真を載せたい位、古いケースには本当にお疲れ様と言いたいです。いざケースの中身を隅々まで調べてみると、初めて大学のオーケストラリハーサルで怒られて渡された5センチくらいの鉛筆が出てきたり、よく見ると皮の部分はもう完全に変色していたり、楽譜を入れるスペースの上部は取っ手代わりに掴んでいたので完全に穴が空いていたり、いやはや、歴史ですね~。捨てるのは本当に名残惜しいですが、ケースとしての機能がもうダメなので、仕方がないです。明日になったらきちんと写真だけ撮って、それから捨てようと思います。
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