数年前、Facebookでの情報で、僕がインディアナ大学でお世話になった合唱指揮者が亡くなったことを知りました。音楽科生の宿命で必ず何らかのアンサンブル授業を取らないといけないわけで、僕たち作曲科生はピアノメインが多く本当に苦痛というか大変でした。ウチの学校は大きい学校だったのでアンサンブルの数も多く、とりわけ4つくらいある合唱クラスの中に「近代音楽合唱団」があったのです。目新しい曲に触れることもできるから勉強にもなるということで7割以上の作曲科生がこのクラスに入っていました。前出の指揮者はこのクラスを長年教えていた先生でした。 ラテン系の女性指揮者で、よく笑うし英語もラテン訛りだし、割と忙しいだろうに普通にご飯行こうと誘うと来てくれるし、そんな先生でした。僕にとっては先生というよりもなんというか、友達のような人でした。作曲のこととかを普通に合唱練習の中で言ってくれたりしてありがたかったです。「ここ、作曲科のみんな、これ、あんたたちは書くんじゃないよ」とか。僕らの学校の先生たちはほとんどがご老体の成熟しきった音楽家だったのですが、この先生は比較的若めで僕らと感覚も近かったのかもしれません。 ただ、そう、若めの人だったから、こんなに早く訃報を聞くなんて思っていなかったのです。きっとまだ20年とか生きるのかなぁと思っていたくらいなので、割と堪えています。サンドストロム先生が亡くなった時には、サンドストロム先生の曲を聴くとか、サンドストロム先生の教えを生かした曲を書こうとか追い風の気持ちが強かったのですが、この合唱指揮者が亡くなったことについては純粋に哀悼の曲を書きたいと思っています。 僕は特に合唱団に入っているわけでもつながりがあるわけでもありません。今合唱曲を書いても正直何かにつながるわけではありません。ただ、この合唱指揮者への哀悼曲で、合唱曲以外を書くことはあり得ません。学校生活で最初から最後まで毎学期顔を合わせていた先生ですから、僕にとってはインディアナ大学で過ごした黄金の日々の一部に、この合唱指揮者の笑顔や一緒に音楽をした時間があります。青春のとても大事な思い出で、自分の人生が輝いていた頃の記憶でもあります。 さて、歌詞を考えようと思っているのです。実はLux Aeternaとか、In Paradisumとかの歌詞を使おうかとも思ったのですが、なんか僕らしくないと思い直しました。目的は僕の気持ちを表現することなので、英語か日本語で、自分で歌詞書くかなぁと考えています。そして、書いてもせめて表現しないととは思うので、僕のリードオルガンで演奏できる曲にしようと思っています。
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by Alfred_61
| 2024-02-01 22:14
| 日記
大学生の頃の自分を思い返すことがよくあります。きっかけは昔の友人からのメールとかそういうのなのですが、当時の自分ってまあキャラがあったなと思います。大前提として学校では「周りから自分ができる限り吸収する」ことを目的としていたので、ほとんど自分から何かを発現することがなく、よく「喋ってみたら普通の人だね、いつ見ても怒ってるように見えてたけど」と言われました。沢山の前ではひたすら寡黙だったのです。 それが、近しい友人の前になると大体2極の話をしていました。1つは不満。もう1つは称賛。不満というのはもうひたすらに「近代クラシックに対する不満」でした。具体的に誰々の何々という曲の何小節目のここが気に入らないとか、そんな話ばっかりしていました。でも、そうやって具体的に他人の芸術への不満を言うことで、「では自分は何がしたいのか」を考えて具体的に理解するいい機会だったと今では思っています。 2つ目の称賛ですが、自分が好きなものに対してはひたすら褒めていました。ただ、ここで気に入らなかったのは、「近しい友人の前」では本音で思った通りの称賛を語れましたが、僕がいた大学の作曲科の文化として10名以内くらいのセミナー的な場所ではほかの人がいいと言ったものを明確に否定せずに同意するのが正しい、みたいな妙な風潮がありました。そのため、自分は良いと全然思わないことに対して「それいいよね~」と言わなければいけないことは多く、僕の顔は引きつっていたでしょうがたぶん英語がうまく言えずにそういう顔になってるとか適当に思われていたのでしょう。 今の自分と大学時代の自分を比べると、今も不満はひたすら口にする質です。これは結果として自分を正しい道に導くための僕なりの生き方であって、言い換えれば不満を多く伝えることで明日からの自分の動きを矯正し、それが大なり小なりの成功につながることが僕にとっては「報われる」ことだったのです。今の僕にはこの「報われる」ことがまずとてつもなく減っているなと感じます。 次に、今は何かに対して称賛することが、ほぼゼロに等しいです。いいと思うものが純粋に減った、とも言えるかもしれません。いろんな理由はあるでしょうが、僕自身の芸術性がレベルアップしていることで自分よりも優れたものにである機会が減っているのは少なからずあるでしょう。あとは、歳をとってくるとどうしても「その芸術の背景にある製作者の感情」が見えてしまうので、金のにおいがするとか、視聴者を見下しているとか、そういうものを見てしまうと純粋に作品を楽しむことがもうできなくなってしまう、ということもあります。 いや~、それにしても、「純粋に」芸術してる、という作品やケースに出会うことって、減ってると僕は思うんですよね。そういう活動している人自体が減っているというか。時代の流れや社会の流れがあって、もちろんコロナなんかも大きく影響はしていると思います。なんかこう、気持ちをキラキラさせて純粋に全力で芸術に向き合っている未熟な作品とか、見てると本当に称賛したくなりますよね。小手先は器用にあれこれやってるのに心が曇っているものほど醜いものはありません。 今の自分に足りないものを補充する生活、というのは今年一年の課題かなと思っています。
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by Alfred_61
| 2024-01-28 22:20
| 日記
実に情けないことですが、鍋に敷き詰めたおでんの具に出汁をたっぷり流し込んでいたとき、おそらくちくわでしょうか何かに出汁が当たって跳ね、左足の甲にまともに火傷を負ってしまいました。500円玉より少し大きいくらいの水疱ができてしまい、皮膚科に通っています。 年末からジョギングや長距離の自転車など毎日続けてきたのに、ここにきて水疱が潰れるからという理由で靴が履けず・・・。外出時にはサンダルしか履けないため足をどう防寒しても寒すぎて+水疱が気になって近所のスーパーくらいにしか行けません。とてつもなくストレスが溜まっています。 実際に火傷を負ったのは先週の日曜日で、今でほぼ一週間になります。水疱の中の水分はかなりなくなって全体的にぺったんこになってきました。水疱を守り続けたおかげで日常の痛みや違和感はほぼなく、ただもし破ったらヒリヒリ感など酷いだろうという心配で左足をかばうため、近所のスーパーに行った程度で左足スネの筋がなんかおかしいです。火傷が完治するまでに筋を直しておかないと。 ジョギングは特に少しずつ距離が伸びてきてこれからというところだったのに、たぶんまた短めの距離からやり直しです。2年前に他界した母の時にも感じましたが、動けなくなったら人間の筋力って週単位でみるみる衰えるので。皮膚科の先生はあと1週間は我慢だと言ってますが、合計2週間ですか・・・筋力落ちてるんだろうなと。 水疱以外どこも元気なのに動けないというのは本当に情けないです。もう少しなんですが、このストレスだけは何ともなりません。
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by Alfred_61
| 2024-01-27 20:58
| 日記
最近ふとしたことでものすごく昔に放映されていたアニメの劇中歌(EDテーマとかでなく)をループしています。聞いていると、はっきり言いますが生きる活力をもらっています。心が前向きになって、ストレスが溜まりにくくなって、新しいことに挑戦したくなってくるのです。 きっとこのブログの古い記事にもあるでしょうが、やっぱり作曲家として究極的に目指したいのは「そういう」音楽を作ることです。誰かに勇気を与えて、誰かを幸せにするような、そんな音楽を書くことが僕の夢、いや、目標です。 具体的な部分に行きますが、例えば4/4拍子の途中で突然6/8拍子を中間セクションとして入れたとしましょう。ここでポイントになるのが「なぜそれを入れたか」なのです。作曲者がそこにそれを入れた理由として、たとえ本人の無意識であっても「マンネリな展開ではなく奇抜なものを作りたいから」というものを持っていたとしましょう。これ、残念ながら「音楽」としては勝手に聞く人に伝わってしまうんですよね。例えば「奇抜だからコンペティションに勝てる」「きっとこれ系を書けばお金になる」等々考えていたとして、それらも音から人に伝わってしまうのです。 もちろん、世の中のほとんどの人々はそれを「これが●●という悪意を含んでいる」とは理性的に感じることはできませんしロジカルに説明することもできません。でも、説明できないからと言ってその人に伝わっていないということではありません。伝わってるんですよ実際。音楽ほど嘘をつけないタイプの芸術も他にあまりないと僕は思います。 でも、そういう芸術形態であるからこそ、本当に魂の籠った音楽を聴くとジャンルだとか年代を問わず、幸せな気持ちになれるのです。だからこそ、僕もそうやって人にエナジーを与えられるような音楽が作りたいです。今のところPercussion Concertoが色々な国で演奏されてきていますが、どうだろう・・・この曲は誰か一人にでも勇気を与えてきたんだろうか。これから人に力を与えるようなことはあるんだろうか。僕が知ることはないですが、誰か一人にでもそういう風にエナジーを与えられていたら幸いです。そして、それをきちんと究極の目標と再認識し、今書いている曲を仕上げていかないと。
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by Alfred_61
| 2024-01-16 23:20
| 音の考察
なんとなく久しぶりにまともな音楽の話を。決まった形で発表されている曲なんですが、初めてその曲を聴いたのはメロディーラインだけの無伴奏だった場合、なぜか発表された「オリジナル」バージョンを聴くととてつもない違和感を感じることがあります。具体的には、作曲で言うところの「色付け」部分になります。メロディーに対して和声をつけるのが、なぜかまるでそうしなければいけないという義務感のように行われているケースがあるんです。そこが違和感なのです。 メロディーとハーモニーというのは、基本的に発想としては同時に想起されるものだと僕は思います。物理的に書き落とす順番がどうであれ、発想は同時なのです。それを、メロディーだけ出てきたのにあとから無理やり理性や論理で和声をつけようとして、うまくいくわけないですよね。もちろんハイレベルな作曲家はそれできるのですが、それも僕はメロディー次第だと思います。そのメロディーがそもそも機能和声の外にある場合、真っ暗な海の中でたった1つの出口を探すような作業になります。技術としての柔軟性もなければいけませんし、柔軟に対応できるだけの知識も必要です。 個人的な意見ですが、和声つけなきゃいいのに、と思うわけです。なんで無理やりつけようとするのか。蛇に足を書くような行為だと僕は思うのですが、人間って思いこむとそれしか見えなくなりますし、さらにはそう思わせる社会通念にも問題があると僕は思います。メロディーだけ出てきちゃった場合に自由な発想で、そのメロディーアイデアが自然と導く音を纏わせてあげることは作曲技術としてはとてもレベルの高いことであり、それをするには技術だけでなく心の強さも必要になるんです。 ちょっと逆の話になりますが、機能和声が頭に染み付きすぎてその上に乗るメロディーしか発送できなくなるより、上記のケースはよっぽどマシだとは思います。こうなってしまってから自分の固定観念を払しょくするのは並大抵のことではありませんし、とてつもなく時間がかかることです。 ここではメロディーとハーモニーという、音楽構成要素の中でほんの2つのことに絞った内容です。同じような関係性と発想の問題をすべての音楽構成要素間で考えていくともう、ね、頭ぐっちゃぐちゃになりますね。まあ、いらんこと考えずに自分が自然にあれればそれでいいだけなんですけどね。それがまあ難しいわけで。
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by Alfred_61
| 2024-01-10 23:52
| 音の考察
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