人生の考え方は人それぞれで良いと僕は思います。ヴァラエティがなくなれば社会は滅亡への道を歩くしかなくなりますからね。今日は僕という個人の固有の価値観を一つお話しいたします。 アメリカの作曲家にジョン・ケージという人がいます。この人は作曲家と言うよりも発明家の方が近く、作曲という分野において僕たち後世に多大なヒントを残してくれました。その一つに、Chance Musicというものがあります。そのまま日本語でチャンスの音楽なのですが、これは非常に僕の音楽にも強い影響を与えていて、僕はチャンスを自分の音楽で非常に沢山使います。 百聞は一見にしかず、ということで、もしもチャンスの音楽が一体何なのかを知りたい方がいたら、CDショップでケージの4'33"という曲があるので、聞けるものなら聞いてみてください。これはつまり、4分33秒の間、舞台の上で楽器を持ってただ何もせず、その空間と時間の中で偶然に起こる出来事(物音)を音楽としてそれをただ待つ、という音楽です。さて、何もせず、ただ待っているだけでそこに起こるチャンスとは一体どういうものなのでしょうか。それは人を感動させるものでしょうか。自分自身に充実感を与えるものでしょうか。社会を変えてしまうほどの影響力を持ったものでしょうか。時を超えて語り継がれるものでしょうか。 チャンスとはそもそも、自分自身が捉える世界のあり方なのです。つまり、自分自身が望んで自分の足でその方向に進まなければ、絶対に"自分の望む"チャンスはやってこないのです。それは、簡単に言えば宝くじは買わなければ当たることも絶対にあり得ないのと同じです。自分自身が可能性を否定し、変化し成長することを諦めた人に、チャンスなんてものが訪れることはありません。なぜなら、そういう生き方をしている人には例え"チャンス"が訪れたとしてもそれはその人にとって破滅へ続く落とし穴にしかならないからです。大金を手に入れて豪邸をいくつも持って、けれどもすぐに借金まみれになって何もかも失う人生が幸せでしょうか。その人生において、大金を手に入れた"チャンス"は、本当に"チャンス"と呼べるものなのでしょうか。僕は違うと思います。 4分33秒の間に起こる偶然の音楽は、わざと自分が変化を発生させることを否定し、拒否し、完全に音楽家としての自分のタスクを忘れた、ある意味究極の音楽です。けれども、その究極の可能性を見せられると、自分が作っている音楽にその偶然性を生かすことが出来ることに気づくのです。それは人生でも同じです。僕は13日間断食をしたことがありますが、食べないということで見えてくる食べるということの意味も理由もあるのです。それを知った上で食事をするのと、それを知らずにただ腹が減ったから食べるのでは全く意味も意義も違います。断食をしてみると、自分から進んで食事を美味しくする方法が分かります。それは食事を美味しく感じる可能性(チャンス)を自分の意志で手に入れようと努力することによって実現することが出来ます。けれども、食べることの意味も理由も考えず、考えようとせず、ただ何も知ることなく笑ってずっと食事を続けている人に、本当に食事に感動することを知るチャンスはないのです。 何もしないで、何も知らないで、チャンスは手に入らないのです。チャンスとは自分の強い意志と努力によって導かれる一つの答えであって、確かにそれをコントロールすることは自分自身には非常に難しいことですが、同時に否定したり知ろうとしなかったり望まない人にはチャンスが訪れることはないのです。僕は作曲家ですから、自分の音楽の中でとてつもない力で人の心をわしづかみにする"チャンス"を作り出すことが仕事です。それはいつでも人の心に響くと約束されたものではありませんが、同時に曲を作って人に発表することなくして人の心に自分の音楽を響かせることは絶対に出来ません。僕は作曲家として、音楽家として、自分自身が感じ、前に進むことなくしてチャンスを手に入れることは出来ないと、ただそう思います。そうでないと信じる人がいれば、その人生もまたアリだと思いますし、僕は他人の思想や哲学を変える為に音楽をしているのではありません。今日ここに書いたのは、僕という独立した一つのオリジナルが思想する哲学でしかなくて、社会通念でもなければ宗教でもありません。これを読んで、またそれぞれ皆さんの感じることをそれぞれの人生に反映させていただければと、そう願います。
by Alfred_61
| 2009-01-24 23:56
| 日記
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