なんでしょうね、気がついたら日付が変わって今日は僕の誕生日ですよ。僕は今日28才になりました。20才の頃から考えると8年間でここまで来たわけですね。小学校6年間なんかとは比べものにならないほど内容が濃く、時間も長く長く感じたこの8年間でしたが、人生はそれなりに続いています。さてさて、それはそれとして、今日という日の定番となっております"一人の赤ワイン"ですが、今日は去年の3月にシドニーで買ってきたShirazです。ではではグラスに注いで・・・今日という日にカンパイ。うん、凄くキレが良くて美味しい。これは美酒ですねえ。食事と楽しむよりもこれだけを飲みたいですね、特に今日みたいな日には。 今書いている曲の一つが"Flowers"です。これは荘厳なメタルバラードに仕上げようと思っている曲で、テーマは人の死です。人の肉体から魂が離れた瞬間に、その肉や骨がすべて花になって地に積もったら、それは死を美しくするのではないだろうか、という考えから書き始めた曲で、以前は別の組曲の一部に組み込まれていたものを今これ単体の歌として書き直しているのです。 僕はこんな風に、昔から死をテーマにした曲をいくつも書いてきました。特に『チェロ組曲』から始まり『クラリネット組曲』、『天使の歌組曲』、『ピアノ組曲第一番』、『パーカッション組曲』、『ヴァイオリン組曲』、そして『オルガン組曲』までの長編組曲集はすべて実は人の死をテーマに書かれているのです。とてもパーソナルでドロドロしたものから、死後の昇天をテーマにしたものまで色々ですが、それだけ僕にとって死というものに対面するときには音楽がある、ということが多いのです。 今日という日も、実は何かが死に、何かが生まれた記念日でもあります。生まれることはすなわち何かが死ぬことでもあり、死ぬことはすなわち何かが生まれることでもあるのです。死の瞬間の感動も、生の瞬間の感動も、僕は同じじゃないかと思うのです。ただ、大きな違いは生には"そこに向かう気持ち"というものが存在しませんが、死にはそれがあるということです。大きな挫折だろうが、突然スイッチが切れるような死だろうが、それまで生きてきた時間というものを踏まえるからこそ死は"残された人々にとって"重い意味を持つのです。 けれども、生まれる本人にも、死ぬ本人にも、それはあんまり関係のないことです。死んだ人は強いけれど、残された人々は弱いのです。ただ、死にも生にも関わる本人にとってはあまりどうでも良いことなのです。どちらかというと、僕が今まで表現してきたテーマとしての"死"とは、残された人々の思いや社会的な意味での死ではなくて、ここで言うところの"本人にとっての"死なのです。きっとこれも僕の音楽が理解されにくかった理由の一つなのでしょうね。だって社会に生きている人たちが死ぬ本人の感覚に共感したりしてたら社会はとんでもないことになってしまいますからね。僕の音楽はどちらかというと死ぬ直前に思い出して「ああ、あの曲はこういう意味だったのか」と振り返るようなものなのです。 僕にとって音楽は宗教でもあります。だからこそ自分自身が死へと向かうことを音楽で表現したりするのです。この行為を鬱と言おうが精神病と言おうが狂気と言おうが自由ですが、僕にとって生きること、死へ向かって歩く道のりというものはこういうものなのです。なんか誕生日だからって色々考えてしまいます。もう少し曲を書く足してから寝ます。
by Alfred_61
| 2009-05-15 03:06
| 日記
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