山の峰なんかを歩いていると、自分が歩いているほんの1メートル程度の幅の道が続いていますが、両側には断崖絶壁だったり転げ落ちたら絶対に助からない谷があります。普通に歩いている限りは踏み外すことはないし、実際に自分が歩いてきた道を振り返ってみてもかなりの距離をきちんと踏み外さずに歩いてこれた自分がいます。でも、そこには常に道を踏み誤る可能性というものがあったのも事実だと実感できます。 踏み外せばそこにあるのは死です。自分は道を踏み外したその時点で死ぬわけです。概念的な死であればもしかしたら何か立ち直る方法があるかもしれませんが、山の峰を歩いている時には物理的で絶対的な死があるのです。山の峰を歩いていなくても、都会の大通り脇の道を歩いていてもあまり変わらないように僕には思えます。ほんの数メートル車道に飛び出せばそこには絶対の死が待っているわけですから。歩道の上を歩いていればその危険性はないのですが、でも自分という意志が車道に飛び出す可能性も否定しきれないと僕は自分に感じます。 自分の意志でコントロール出来れば良いですが、突然くも膜下出血や脳溢血でフッと自分の見ている世界がブラックアウトしてそのまま死へと繋がる、ということももちろん僕たちの日常には可能性として存在しているわけです。突然死症候群みたいなよく分からないものも可能性としてあるわけです。 自分が今健康に生きているという現実がまるでうたかたのはかない夢のようにさえ思えることがあります。今とはとても不安定で、それはどんな方向へどんな可能性へでも進むことが出来ます。自分の意志で変えられる未来もあれば、そうではない未来もあります。今は今で自分がこうしてここにいると分かりますが、今という時間はまるで山の峰の幅1メートル足らずの道で、そこから次にどうなるかは予測は出来ても確信は出来ません。 音楽とは今を表現する芸術だと僕は思っています。決して未来ではないと思います。もしかしたら過去には関係しているかもしれませんが、それも今という座標軸を起点とした関連性だと僕は思います。ライヴ演奏というものは本当に幅1メートルの道を歩いているようなものだと僕は思います。僕が日本で音楽を習っていた先生は、演奏とは飛行機の操縦のようなもので、どんなに風にあおられても墜落することなく乗客を曲の終わりという地点まで届ければ良いのだ、と言っていました。それはそれですごく極端な言い方ですが、曲が始まり終わるということは幅1メートルの道を踏み外さずに歩いているわけで、そのクオリティー以前に音楽家として僕たちはその意味を理解しなければいけないんじゃないかと僕は思います。 作曲というものには演奏家が幅1メートルの道を踏み外さない曲を書く、という意味もきっとあると僕は思っています。絶対に道を踏み外さない機械が演奏するのと、踏み外す可能性を持っている人間が演奏するのでは全く意味が違います。でも、作曲も道を踏み外す可能性を持っている人間にしか出来ないことですから、そこには常に死の概念が見え隠れするように僕には思えます。ただ、死を恐れずに認めて目をそらさずに真っ直ぐそこへ向かって歩いていくことは、少なくとも尊敬すべき生き方だと僕は思います。
by Alfred_61
| 2010-07-04 23:55
| 日記
|
ファン申請 |
||