料理をするのが好きな人と、料理をするのが得意な人は別です。料理を好きな人が料理が上手いとは限りませんし、料理を得意な人が料理することを好きかどうかもわかりません。変な話、料理を音楽ってこんなところでも似ていて、演奏でも作曲でも歌でも、音楽をすることが好きな人が必ずしも音楽をすることが得意だとは限らないのです。 音楽学校なんかに行った人間としては、やっぱり努力して練習を人一倍沢山やったらその分だけ自分は音楽が得意になっていくのだと思っていました。でもそれは実は大きな間違いであって、どれだけ練習を繰り返しても、結果としては音楽の技術が上がるだけで誰しもがそのやり方で音楽を得意になれるわけではなかったのです。 誰よりも音楽をすることが好きな同級生がいました。彼は父に東ヨーロッパで名をはせている作曲家を持っていて、所謂サラブレッドでした。でも、彼は作曲が好きで好きで仕方がなかったのに、残念なことに作曲をすることが得意ではなかったのです。作曲をすることが得意かそうでないかは、実は結構本人の生きてきた人生やその上で現在の自分を形成している哲学や生き方で決まったりします。だから、言い換えれば今から自分が今まで人生をかけて自分というアイデンティティと成った物事を多く捨てて忘れて一から"自分"を作り直す謙虚さとそこまでの野心があるなら、"作曲を得意になる"ことは誰にでも出来ることだと僕は個人的に思います。 ただ、それはつまり自分自身を否定することであって、そういう生き方が必ずしもすべての人にとって幸せに繋がるかというと僕は首を捻るので、やっぱり作曲が得意な人間とそうでない人はいるのです。作曲における才能とは小手先の技術ではなくて、人間性です。はっきり言ってそれに尽きます。努力して人間性を鍛え上げることはもちろん可能だと僕は思いますが、そこには自己否定が必ずつきまといます。自分の経験がすべてだと思っていて、それに絶対的な自信を持っている人には自身の人間性をより一層の高みへ持ち上げる可能性がないと僕は考えています。 演奏においても同じことが言えると僕は思います。技術的に非常に優れている人でも、その人が演奏することを得意としているのかどうかは別の話です。ここでもやはり人間性の部分が出てきます。献身や慈悲の気持ち、サービス精神や自己犠牲を恐れない他人への愛情など、そういうものを生まれつき持っている人こそ音楽をすることが"得意な"人と呼べると僕は思います。だってそういう人たちの演奏は下らない技術やピッチやリズムやそんなものはどうでも良いくらい音楽として優れているのですから。それを、きっと音楽では"才能"と呼ぶのだと僕は思います。 努力しなくても聴く人が涙を流す演奏が出来る人に「凄いね」と声を掛けたところで、きっとその人はキョトンとするでしょう。だってそれは別に努力や技術の上にあることではなくて、どちらかというとその人の人となりそれ自体の上にあることなのですから。つまり、その人はただ"自分らしく音楽している"だけであって、決して他人と自分を比べたりもしないでしょうし、金銭云々のことを考えたり名声や栄誉を考えたりもしていないでしょう。等身大の自分で当たり前のように演奏したら観客が泣いちゃって、という感じでしょうね。それを聞いた同業者が「私もあのレベルまで行きたい!」と考えて日夜寝る間も惜しんで練習に明け暮れたところで、実はその方法では音楽を得意になることはないんです。どちらかというと指先の問題ではなくて、心の問題なんだと僕は思います。
by Alfred_61
| 2010-11-11 23:55
| 日記
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