生きるって、自分にとって一体何なのか、何となく最近頭をよぎります。色々なことが"自分"というコアにまとわりついていつの間にかあるがままの自分の周りには最早原型を推し量ることが出来ないほどに贅肉のようなゴミがまとわりついています。あるがままの自分が特に変わったとも思えないのに、社会的には僕はかなり変わってしまったみたいです。 朝起きて自分の脳みそが覚醒しきる前に表に出てラッシュの中電車に乗り移動していると、まるで自分と自分以外のすべてにはとてつもなく大きな距離があり、自分が周りの世界にとけ込んだり、そもそも同じディメンションにいられることすら根本的に不可能であるかのような、そんなことを感じます。 あまりにも雑多に何もかもが起こり何もかもが赦され何もかもが壊れる、それがこの世界なのです。条理不条理クソ喰らえ。そもそも世界はそういう風になっているのですから。しかし、それならば"自分"とはこの世界にあるように見えて実はそうではない、一体何なのか。そこにしか自分はないはず。そこ以外に自分はない。分かっていてもこの世界から"それ"はのぞき見ることしか出来ず、それを芸術という形で表現することは出来てもそれは"それ"そのものではない。 自己表現というならば、それは一体どこに始まり、そしてどこを向いているのか。誰に見せてそれが自分にとって一体何になるのか。所詮は贅肉の部分より内側が見える人間なんてこの世界にはいないのですから。自分自身の贅肉の内側さえも簡単に見失ってしまうのですから。 既に歩くことを始めたあとである自分にとってこのまま歩き続けて進み続けることはそれほど難しいことではありません。ただ、立ち止まるという選択肢も、それ以外の選択肢も自分には常にあるわけで、贅肉なんて脱ぎ捨てようと思えば簡単にぶち壊せるのです。僕は、何かを壊すのは、こう見えてかなり好きです。
by Alfred_61
| 2011-06-13 23:55
| 日記
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