大学にいた頃は周りがみんな作曲家の卵だったので自分のスタイルや方法を確立することが割としやすかったように思います。今日は曲を書いたあとに見直して補正を加えていく"推敲"について少し。 George Crumbという人にレッスンを受けたときに言われた言葉ですが、「何事にも絶対にそれをbetterにする手段はあって、曲が出来上がってからそれをじっくり考える時間はとても大切な作曲の一部だ」と彼は言いました。僕は個人的に同意しかねる部分があるのですが、少なくとも推敲すること、作曲における推敲とは何をすることなのかをよく分かっていない同級生達にとっては含蓄のある言葉だったようです。 僕は既にその頃には自分の曲を推敲することに時間を使うことを覚え、レッスンの直前に書き上げるようなことはしなくなっていました。提出するもしくはレッスンで先生に見せる段階の曲は既に推敲まで済ませて自分自身がきちんと納得する形になったあとのものでした。 僕が個人的に推敲の段階で良くやることは、まず第一に不要な音がないかを探し、それを消していくという作業です。要らない装飾、リズムをややこしくしているだけの拍、自分としては全く納得せずに書いた音符、それらを探していって削っていくのです。その曲があるべき姿である為に最低限必要なものはそんなに多くなく、推敲の段階で最低限必要なもの、あればbetterなもの、無くてもいいもの、と再度曲を分析していくのです。もちろん作曲者の目でしか出来ないことですが。まあ、推敲の内容自体は作曲者個人個人で十人十色に違うものです。 当時の友人にはこの推敲にひたすら時間をかけるヤツがいました。下手をすると1曲あたり半年くらい悩むのです。書き終えてから、本当にそれで良いのかを毎日毎日自筆譜を見つめながら考えるのです。僕は推敲にかける時間が短い方でしたが、それでも彼の悩み方にはなんだか執念のようなものを感じていました。 最近とある事情であまり作曲に精通していない人々に推敲前の書きかけスケッチや曲を見せたり聴かせたりすることがあり、そこでの反応を見て再度推敲という作業の大切さを痛感しました。やっぱり曲の最終着地地点はどんなに言葉で説明しても作曲者本人にしか理解できないものであって、そしてそれが形になる前に誰かに聞かせてしまうともうその人の脳には推敲前の言わば磨き上げる前の原石のイメージが完全に焼き付いてしまって、そこから磨いていっても原石のイメージを払拭することが不可能になってしまうんですね。 思い返せば作曲科の教授達でもほとんどがそうだったように感じます。もう楽譜を見せた段階で明らかに僕の曲やスタイルを気に入らないと感じた先生はどうやって僕の曲を全く違うものに塗り替えるかを指導してきました。しかし、実際に僕が完全に推敲まで終わらせた、直前に書いた曲を演奏会で披露すると「良い曲じゃないか、見直したよ」と手のひらを返されたりしたことを思い出します。当然僕の内では「何で?今書いている曲と一体何がそんなに違うの?」という疑念が渦巻いていましたが。 作っている側から見えていることと、それ以外の外から見えていることでは全然違うのだということは分かっていましたが、それにしてもピュリツァー賞受賞歴があるような先生でもそんなものなのだなと思ったのを思い出します。それを一般人になんて当てはめてしまったら大変なことになります。作曲者としての責任の範囲内になると僕は個人的に思っているので、人に聴かせるものは推敲まできちんと終わっているものにしようとつくづく思いました。
by Alfred_61
| 2012-11-06 23:55
| 音の考察
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