長い間付き合っていた人がいて、その人と別れたすぐ後というのは、自分の身の回りにある別れた人に関係する物が妙に気になってしまいます。僕の友人のAnthony Joseph Lanmanも、死に別れた昔の彼女の写真を今でも財布に入れて持ち歩いています。僕にとっては、再会するまでの自律の証として左手首に着けていた数珠が残りました。 何となくですが、3日経った今でもそれをまだ着けています。以前に失恋をしたときはとにかくその時の彼女に関する物をすべて処分したかったものですが、今回は妙に何もする気が起こりません。精神的に脱力していることは確かなようです。昔の失恋の時に書いた曲、無伴奏チェロ組曲も今聴いてもなんだか耳を通り抜けていくだけのように聞こえてしまいます。何事にも終わりはやってくるのです。今回はかなり予想外に突然の告白をされましたが、そのせいか全然実感がありません。きっと時間が経つに連れてジワジワ効いてくるのでしょうが。 今でも頭にこびりついて放れないのは彼女の言った「貴方の人生は私のずっと上にあるの」という言葉です。僕は知らない間に随分普通の人生とはかけ離れた道を歩いてきましたが、彼女の言葉はその距離感をはっきり認識させる力を持っていたように思います。 僕にとって彼女はいつも応援してくれる支えでした。そして僕はそれに後押しされるようにどんどん自分の道を進んでいきました。でも、彼女にとって僕という存在は一体何だったのでしょう?もしかしたら、彼女は僕のことを嫉妬や劣等感を持って見ていたのかも知れません。彼女はほとんど、僕の何かを嬉しいとか、ありがとうとかいう言葉で表現したことはありませんでした。 ただ、最後に彼女は言いました。僕が送った曲のCDは、必ずどこかに持っておいて、たまに出して聴くよと。今これを書いていて思いましたが、その曲に入っている僕の弦楽四重奏は今の彼女にぴったりの曲かも知れません。不安に満ちあふれた音の空間が、10ぷんある第一楽章の終わりに向けてゆっくりと解決してゆき、最後にはすべてが交わり、昇華されるのです。それはちょうど、トンネルの中をゆっくり歩いて、いつかは出口にたどり着くと言うような、希望の音楽なのです。 彼女は僕といた時間を楽しく過ごせたのでしょうか?僕がしてあげられることはもうなくなりましたが、彼女が前向きになってより良い人生を生きてくれることを願っています。
by Alfred_61
| 2005-05-26 14:12
| 日記
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