美感という物は人それぞれ違います。例えば万人に受け入れられる音楽が存在しないように、ある一つの価値観がすべての人に理解されることはありません。そこで例えば僕という個人が出来ることは、自分が心から感じる美という物を表現することしかありません。しかし僕は結構偏った美的感覚を持っていると思います。僕が美しいと思うことは良く「え゛?そんなのが良いの?」と言われます。でも一方で涙を流して「わかるよ~」と言う人もいます。 以前の記事に書きましたが、僕は最近失恋を経験しました。結論を出したのは僕なので、自分で決めたというすっきり感はありますが、それでも胸の奥で疼く痛みはあります。でも今日は何となく思考がポジティヴになっていたようで、別れた彼女と共有した想い出を幾つか振り返りました。ある日、僕と彼女はこんな話をしていました。(ちなみに僕は料理が趣味で、大概の物は作れます。) 「今ねぇ、豚肉とニガウリの炒め物作ってるの」 「へえ、料理あんまり得意じゃないのに、ちゃんと美味しくできるの?」 「もちろんだよ。あ、信じてないんじゃないの?」 「まあ、僕が作った方が美味しいだろうなとは思ったけどね」 「それじゃあ次に再会したとき、作ってあげるわよ。楽しみにしておきなさい」 「はいはい。期待しておりますよ。お姫様。」 内容は何の変哲もない普通の会話でした。でも、その時交わした約束が叶うことのなくなった今になって振り返れば、これほどキラキラ輝く会話はないのではと思うほどそれが美しく感じられます。それはその時の二人がその約束を将来成し遂げられない事を知らないから。それはその時の二人がその約束が叶うと信じていたから。それはあまりに他愛のない内容だから。そしてそれは世界中を探しても、僕たちの想い出の中にしか残っていない物だから。 「切ない」という日本語はとても特殊な言葉で、これは他の言語ではなかなか表現出来ません。でも、切なさは僕にとって美を構成する大切な一要因であり、それが人の心を動かすのだと信じています。幸せに包まれて何不自由ない状況で交わされるこの会話には一片の価値も感じませんが、過去に交わされ果たされなかった約束という意味では深い美しさを感じます。だから人生は美しく、すべてが輝いて見えるのでしょうか。いつかは死んで自然に回帰する僕たち一つ一つの命が、その限られた時間に経験する小さな出来事の集合体・・・人生とはなんて美しい物でしょうか。
by Alfred_61
| 2005-05-29 13:11
| 日記
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