例えばアメリカ文化でハグをするタイミングや頻度がある程度慣習として固まっているのですが、普通に考えてみればすべての人がその慣習通りのタイミングでいつもいつもハグしたいはずはないのです。でも、慣習とは【自分の感覚】を抑え込んででも人々が準ずるものだから慣習なわけで、そこでは人々はこんな時にいちいちハグなんてしたくないと感じても"それがそうするものだ"からハグするわけです。 日本文化ではハグやスキンシップが世界的に見て少ない方だと僕は思いますが、こっちは反対でもっと人に触れたい、ここでハグしたいと思ってもそんな【自分の感覚】を押し殺してここではそんなはしたないこと、みっともないことは出来ないと自分を律して我慢するわけです。こうやって慣習というものは作られてゆきそれは文化と呼ばれるようになります。 でも、【自分の感覚】を殺している以上、こういうことを続けていればいずれ自分自身が固有の感覚を持ちそれを何らかの形で芸術に昇華する、所謂"オリジナル"というものは見えなくなり、感じられなくなり、どうやって作るのか分からなくなります。まあ、至極当然ですね。だって自分で【自分の感覚】を殺しているのですから。 以前良く独創性について若い子たちに話をしていたのは、今日食べる白ご飯の味と、昨日食べた白ご飯の味をちゃんと感覚出来るかどうか、というものでした。これって転嫁すれば何事にでも当てはまるわけで、今日の空と昨日の空もそうですし、今日の電車と昨日の電車、今日は何が食べたい、今日はハグしたくない、今日はどうしてもハグしたい、という自分自身からしか出てこないはずの"感覚"につながるわけです。 これはこういうもの、と自分自身が納得した時点でオリジナリティーなんて絶対に出てきません。映画音楽はこういうもの、バンドってこういうもの、ヒップホップとはこういうもの、DJってのはこういうもの、リードオルガンとはこういうもの、舞台俳優とはこういうもの、なんでもそうです、その慣習に押しつけられた感覚を受け入れた時点でその人は世界に唯一であるはずの個性からただの一消費単位、例えば一人の日本人、とか一人のアメリカ人、に変わってしまうわけです。 僕には来月3歳になる娘がいます。既に彼女は日本社会の慣習を身につけ始めているので、ハグしたいときでも我慢して自分を押し殺そうとします。そんなときに僕は敢えて我慢をせずにハグさせてあげるようにしています。そして、同時に親として自分がハグしたくないときにはいくら相手が望んでもしてあげないようにしています。結果としては恐らくアメリカ文化から見ても日本文化から見ても歪な我が家庭独自のハグ文化があるわけです。どちらにも属さない代わりに、我が家のハグ文化はオリジナルです。 さて、ではきちんと自分自身で納得した、決して慣習に押しつけられたものではないと自分で確信できる4/4拍子の曲を作ってみましょう。それが出来ない難しいと感じるならば、まずは【自分の感覚】の在処を探すところから、勉強のやり直しですね。
by Alfred_61
| 2015-05-13 15:11
| 音の考察
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