栄誉や特別な地位って、本当は自分で求めて手に入るモノではなくて、別に必要ではないけれど社会が与えてくれるから貰う、そんなものじゃないのかなと何となく思います。今日も毎週の習慣通り僕の先生Sven-David Sandtrömとバーで一杯やりに行ったのですが、その途中で先生がふとこんなことを僕に言いました。 「お前は最初からUndergrad(学士課程生)だと思っていないんだ。Graduate(修士・博士課程生)と同じかそれ以上のことが出来るんだから、どうせなら学校に一筆書いて、修士を飛び越えて来年から博士課程でもやらせて貰え。ここで無理ならヨーロッパでそうしろ。」 アメリカに来てこの学年になるまで先生方から褒められるということはほとんどありませんでしたが、いざ面と向かって言われると一瞬「へ?」となってしまいました。別に僕はそんなこと出来るとも思っていないし、そんなことがしたいために必死に勉強しているわけでもありません。でも、もし社会がそれを許してくれるならそれは願ってもないことだと思います。やっぱり博士号を持っていると教師の仕事は見つけやすくなります。 細かいことを言い出すと、ヨーロッパで博士号を所得したら恐らくその国で目先10年は生活しないといけなくなるでしょう。それはどうかとちょっと思いますが、それは今回の記事のポイントではなくて、僕が言いたいのは先生からそういう評価を受けていたことを今になって気付かされたことです。 なんだか自分がコンクールなんかに応募しているのがバカみたいに思えてきました。自分から賞を貰うために応募するなんて、なんだか順序が逆ですよね。本当は、別に賞を目的に活動していない人に、努力や功績を認めて賞を与えるというのが本当の賞だと僕は思います。だからノーベル賞もアカデミー賞もそういう形式になっていますよね。アカデミー賞に自分から出典する監督はいませんし、ノーベル賞を取るために研究している人たちもいないと思います。 本当に栄誉が欲しいなら、毎日を必死に生きることしかないのではないでしょうか。日々の小さなことを軽んじずに、24時間365日全力で生きている人にこそ賞は与えられるべきで、賞を得るためだけに20時間ぶっ通しで勉強しているような人には栄誉は与えられるべきではないと僕は思います。だから日本の音楽賞やら何やらも結局形骸化しちゃってるんだと思います。形骸化という本心はその分野の人間に対してしか意味を持たず、社会的な意味はほとんどゼロだということです。
by Alfred_61
| 2005-09-23 13:10
| 日記
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