昨日からブルーミントン市は雨。ずっと降り続いているので、傾斜の多い町では所々で危険なくらいの水たまりが出来ています。車で何気なく通り抜けようとしたら深すぎて途中で動かなくなりそうな感じで、結構怖いです。 こういう雨の日は自然が作る本物の音楽を聴くことが出来るので、気分は暗くてもそれなりに楽しかったりします。音楽に用語を持ち込んだバカに出会えたら張り倒してやりたいのですが、例えばCメージャーコード(ドミソの和音)って、こんな風に言葉で書けるようになっちゃって、本当の姿がいつの間にか忘れ去られています。 音楽は数学とは違い、記号がいつ如何なる時も同じ意味を持つことは、実はあり得ません。(いや・・・数学でもそういうことはあると思いますが。)つまり、問題なのはただのCメージャーコードでも、その和音にどういう形で到達したか、どういう形でそこから離れたか、それによって実はCメージャーコードは何百通りにでもその響きを変化させることが出来ます。 Cメージャーコードと用語で表現するから、「ああ、Cメージャーね」と、人々はその響きを勝手に決めつけ、それ以上の可能性をシャットアウトしてしまうのです。そして音楽の形式においては、こういうことはもっと重要な意味を持ってきます。例えば単純なA-B-A形式(ターナリー形式)で、Aが二回目に出てくるときに完全に同じ物を繰り返すとします。でも、その二回目のAは、「Bを聴いた後で」という特殊な状況を与えられたことによって、一回目のAとは違って聞こえるのです。なぜなら、そこには「音楽的な意味」として全く違う物が存在するからです。 雨はいつ聴いても「雨の響き」でしょうか。それらは用語で表現されることですべて同じになるでしょうか。僕は生まれて一度も「全く同じ雨の音」を二回聴いたことはありません。何千回何万回と雨を経験しましたが、それらはすべて違う物であり、僕の人生がその時どういう状態にあるかによって響きが全く違って聞こえました。自然な音楽とはそういう物だと僕は自分の哲学の中で考えています。さてさて、社会が用語に縛られて無調音楽に向かっていった時、頑固なまでにこの考え方を使って独自の調性音楽を書いた20世紀初頭のフランス人作曲家がいますねえ。あれは本物の音楽だから沢山の人に好まれ、演奏され、そしてきっと何百年も残るでしょうね。
by Alfred_61
| 2005-11-16 00:03
| 日記
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