考えてみたら、昔は単純に沢山の曲を書くことや、長い曲を書くこと、先生にほめられることやコンクールで賞を取ることが一番重要な目標であって、それらのために毎日がむしゃらに勉強していました。言葉を換えれば、プロのミュージシャンがプロデューサーに気に入られるように活動するとか、もっと若い10代20代のファンを作るために無理にキャラクターを変えたりとか、そういうのと同じだと思います。それは良い動機だと思いますし、建設的な活動がその先にあるので問題はないでしょう。 でも、いつの間にか僕が音楽をする理由、勉強をする理由は変わってきました。あの頃からはちょっと想像できないのですが、今は究極的には自己満足です。音楽を勉強し、技術を身につけ、経験を積んでくるとだんだんどうしてもこれがしたいというモノが出てきたのです。昔は漠然と"作曲家"になりたいナ~と、そんな感じでしたが、気がついてみればいつの間にか、無限に広がるジャンル幅のこの現代で、僕は僕という個性として立っていることに気がついたのです。 "個性"なんて偉そうに聞こえますが、僕が意味するのは"自分のチャーハン"という感じのモノです。誰がチャーハンを作るときに他の人と違うモノを作ろうと、その独創性に全身全霊を費やすでしょうか。そりゃあ四川なんかで食べるホンモノのチャーハンとは違うでしょう。日本の中華料理屋で食べるチャーハンとも違います。いや、というか、同じモノなんて存在しないのですよ。例え同じレシピを使って作ったとしても、僕と同じ味を出せる人はいないのです。そして同時に、僕が誰かと全く同じチャーハンを作ることも不可能なのです。 僕のチャーハンを、今の段階からより美味しくしていくのは、もはや自分で苦労して切り開いていくしかないのです。溶き卵を入れるタイミングとか、そういう技術はもう持っていますし、あとはこの単純な料理をいかにしてもっともっと自分らしく、自分が食べて「美味っ!!」と言えるように進化させるかしかなく、それは他の人からは教えることが出来ない世界なのです。ねえ、「ケチャップかけたら美味しくなるからやりなさい。」とか言われて当然拒否したら成績下げるような先生もいるんですからね。 ここに来て、実は最近ジョン・ケージという人が素晴らしい作曲家であったことをジワジワ感じるようになってきました。実際彼の音楽で現在注目されるのはけったいなことをしている曲ばかりで、本当のケージはまだまだ理解されていないと僕は思います。なぜなら、彼のチャーハンはあまりに独創的であまりに個性的で、なかなかそれを作るのにどういう行程が踏まれていたかが分からないからです。 僕はこう思うのです。ケージが本当にたどり着きたかった音楽は、実はチャーハンがメインと見せかけて横に付いている中華スープが彼の音楽なのではないか・・・と。つまり、音符ではないのですよ。彼の音楽は。音符がどうなっている、ということは後期になれば明らかに彼の興味からはずれていきます。あれ?音楽ってでも音符で出来てるよね?とまだまだ社会がチャーハンに気を取られている間は、きっと彼の音楽が本当に理解されることはないでしょう。 音楽の世界は21世紀の到来と共にある一つの節目を迎えました。そして、これから人間社会の音楽は今までの概念を超えた新世界を迎えるのです。これからは、音符ではなくそこに付随して生ずる独特の"音世界"というモノを表現する作曲家が出始めます。僕も、実はそこへ向かっています。チャーハンのたとえを使うと、それはチャーハンがどれだけ美味しいか・・・なのですが、今までは厨房でどれだけチャーハンを美味しくできるかにしか世界は開かれていなかったのが、店の内装から付属の中華スープ、食器の形から分量、出来たてをすぐ食べるだけじゃなくて出すタイミングを変えるとか、どんなカワイイオネエチャンが「はいどうぞ~」と言ってくれるか、食べている所から見えるテレビに阪神タイガースが映っているか、そういうすべての因子を組み合わせて人の心を満足させるチャーハンがどんどん作られるようになる、ということです。そして、僕はそれを最初に追い求めていくつかの作品を残した作曲家が、ジョン・ケージという人だと思うのです。
by Alfred_61
| 2006-04-04 11:43
| 日記
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