言い換えれば単純なギヴアンドテイクなのですが、これは西洋思想に根強く存在し、今でも細かい文化の末端に表れている考え方だと思います。例えば「私が貴方に曲を書くから、貴方はその曲を演奏してくれますか?」というオファーの仕方は完全に等価交換の思想から来ているものだと僕は思います。 でも、純粋に思い返してみてもなかなか日本の文化に等価交換の思想があるかどうか、なかなか分かりません。確かに生け贄や持衰といった文化はありましたが、結局意味がないと言うことでそういう文化もさっさと姿を消していくのが日本なのではないでしょうか。 日本の感覚では、どちらかというと自分の身の回りにあるもの、宗教的に言えば自然と言われるものに常に存在する数々の力を純粋に使用するだけという方が的確な気がします。そこでの問題は自分という立場からそれら自然の力が認識できて理解出来るのかと言うことだと思います。ややこしくなってくるのでこんな感じで説明してみます。 西洋料理の味付けでは結構、素材そのものの味を覆い隠すようなものがあります。例えばヴァニラエッセンス、マスタード、胡椒、マヨネーズ、ケチャップ、などなど。胡椒なんて元々お肉の保存技術がなかった時代に古い肉の臭みを消すために重宝されたのですからね。一方、日本の文化においてはどちらかというと素材の味をただ支えるだけの調味料というものがほとんどだと僕は思います。そりゃあ醤油も使い方によっては煮物の味を醤油だけの味にしてしまいますが、本当の煮物というのは素材からしみ出す天然の旨味を醤油や砂糖で支えると言うのが根本的な観念の料理だと思います。 西洋料理の考え方と比べると、日本料理の思想は何かを失って何かを得るという発想ではなく、あくまでも周りにすでに存在しているものの力を引き出すというものだと僕は思います。さてさて、ここで一気に作曲に話を持って行きますが、西洋的作曲法というのはやはり西洋料理のそれと似ていて、日本的な感覚とは根本的に違うところがあると思います。例えば対位法なんて、フォアグラに合わせてキツいソースを作る感じに僕には思えます。それでどちらもたてようとすると、必ずそこには緊張が生まれます。それでバッハの長いフーガなんかみたいに延々と続けられたら、僕ではすぐにおなかいっぱいになってしまいます。ご飯食ばかりで育ったからパン食があまり進まない感じですね。どちらがベターという意味ではないのですけどね。 僕は自分の作曲法をいつも料理に例えます。僕の作曲理念の根本は日本料理と同じで、周りにある食材を如何に美味しく食するかということに重きが置かれています。そりゃあたまにはハンバーガーのような曲も書きますが、やっぱり煮物でしょう、本当に毎日食べたいのは。味付けはあくまで薄い目で食材の味を壊さないように細分の注意を払うこと、例えコース料理でも食べる順番や間隔の長さを調節して、食べる側が100%素材の味を楽しめる状況を作る、それが僕にとっては作曲工程の大部分なのです。千利休が満開の朝顔を一花だけ残してすべて摘み取ったあの感覚が僕の中にも確かに存在しているのだと思います。来週の月曜日に会うジュリアード音楽院の教授には、恐らく説明しても深く理解はして貰えないのでしょうけどね。まあ、僕は自分のやり方でやっていくだけですし。
by Alfred_61
| 2006-04-27 10:41
| 日記
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