何度かここに"純音楽"という芸術形態について書いてきましたが、今日はちょっとその核心辺りのことを説明のような形で書きたいと思います。まず、純音楽の定義ですが、出来る限り"音"以外のシンボル的要素を除外した、音そのもののみで完成型となるタイプの音楽のことです。例で言うと、そうでないモノを挙げていった方が良いでしょうか、例えばタイトルに鎮魂をイメージさせるモノが付いているモノは純音楽ではありません。良くあるプロモーションヴィデオの付いているモノも違います。タイトルは完全に中性でなければいけません。例えば、"ソナタ"(意味は実はただ"曲"だけ)とか、"小品曲"、"前奏曲"、そして僕がよく使う"組曲"などですね。 さらに、"誰の作品である"と情報としてくっついてくるタイプのモノも純音楽ではありません。例えコロンビア大出身の日本人歌手の曲でも、その人が歌っている、ということがラジオで説明されてもダメですし、CDのジャケットに載っていてもダメです。可愛い顔がジャケットに載っているなんてもってのほかです。それらはすべて非純音楽です。 僕はこの純音楽が音楽で最も崇高な芸術形態であると信じています。なぜこんなタイプの音楽が存在するかというと、それは以下の理由です。例えば"海"というタイトルが付いているとします。するとまずシンボルである"海"がイメージの主体として強制的に固定されます。いくらそれを山のイメージだと思う人がいても、疑問を持つ猶予も与えずタイトルがシンボルとして脳に海のイメージを叩き込みます。これは、知性ある人間なら抗うことは不可能です。 けれども、もしその曲が"交響曲"とかいう中性的タイトルならば、そのイメージは完全に聞き手に相対的にゆだねられるワケです。ある人によれば山をイメージするかもしれませんし、他の人は海を感じるかもしれませんし、けれども作曲家の表現力によってほとんどの人が海を感じる・・・とそれが純音楽というものです。そして、聴く人十人十色の海がそれぞれの感覚に響くわけです。聴く人の感性が鋭ければ鋭いほど、純音楽は想像力をかき立てられる素晴らしい芸術形態なのです。 純音楽の弱点は、その広がりがすべて聴衆にゆだねられていること。はっきり言ってしまえば、映像ではっきり示して貰わなければ、音だけでは想像することが出来ない人には、純音楽は"分からない"音楽になってしまうわけです。もしくは、"交響曲"を聴いても作曲家が描く海がイメージできない人にとっては、なんだかよくわからない曲、と評価されるわけです。ちなみに、余談ですが、現代クラッシックの無調音楽やお化けの出そうな曲を書いている連中が"excuse"(イイワケ)として言うのがこれなのです。「お前等の完成が乏しいから分からんだけじゃボケ」と言いたいのですね。そしてこれは完全な誤解で、ただのエゴです。僕はそうならないように心がけています。 純音楽こそ、僕が目指す最高レベルの作曲です。そこにたどり着いたなら、非純音楽なんてワケなく書けるでしょう。今の技術と経験があれば、非純音楽の世界で仕事をしていくことははっきり言って簡単にできます。1週間で3曲書いてこいなんて、非純音楽なら屁のカッパです。けれども、まだ少なくとも3年は修行の身ですから、その間は書ける限り純音楽を書いていこうと思っています。目標は高ければ高いほど良いわけですからね。 そうそう、そういえば日にち的には今日(金曜日)にアメリカに戻ります。起きたらシャワーを浴びて空港へ行くのです。テロがらみで何かあったようですが、鬱陶しい検査に引っかからなければいいのですけどね。運良く飛行機会社はアメリカンですが。
by Alfred_61
| 2006-08-11 01:25
| 日記
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