先日久しぶりに珈琲を飲みました。躰を壊す前は毎日こだわりの淹れ方でこだわりの豆ばかりで珈琲を飲んでいたのですが、体調が深刻になるにつれてお酒と共に飲まなくなっていたのでした。やっと毎日が普通に流れるようになってきて、その日はキーボードプロフィシエンシー(鍵盤演奏能力)という卒業に必要な実技テストがあったので、気合いを入れようと地域のレストランでホットサンドイッチと一緒に飲んだのです。 はっきり言って、とても上質とは言えるモノではありませんでした。たぶん早朝に作られて、ずっと保温機の上で酸化していたのでしょう。薄暗い店内で濃い茶色の容器であるにもかかわらずに底が見えるような典型的アメリカンコーヒーでした。長い間口にしていなかった味とはいえ、味そのものの評価は決して高くは出来ませんでした。 けれども美味しかったのです。何故かその珈琲が美味しかったのです。パリのカフェーで飲んだエスプレッソなんかとは比べものにならないはずなのに、フランスで飲んだ珈琲とは全く違う意味で美味しいと感じたのです。一杯目を飲み終わったらウェイトレスが鬱陶しくもう一杯を注ぎにくるのですが、その日は二杯目が欲しかったのです。結局二杯半飲んで、少しチップをはずんで店を出ました。 芸術はそれを知覚する人の置かれている環境と状況によってその味わいが全く変わるのです。作品そのものの質が高いというだけでは、芸術としての存在意義を満たしきれてはいないのです。レラティヴな個人の精神状態がそこに関係するからこそ、本当に芸術は芸術たることが出来るのです。つまり、"天才"とはただ運良く色々なことがかみ合って芸術のあるべき効果を外的要因から発生させることが出来た人たちのことであって、本当の意味での天才は世の中に沢山いるのです。 珈琲は雰囲気によって味が変わります。珈琲好きな人なら全員知っていることでしょう。音楽も、絵画も、映像芸術も、漫画も、小説も、受け取る側の置かれている環境と状況によって味が全く変わるのです。社会の大多数が置かれている状況や環境に対応して作るのが商業的芸術ですが、それが僕の飲んだアメリカンコーヒーであることは火を見るよりも明らかです。芸術は、いくらそれを作ることが出来る魔法使いが存在しても、それを本当に知覚することの出来る社会的環境と個人的状況が整わなければ、社会で評価されることはないのです。 まあ、結局芸術はその作業工程の90%が自己満足です。取りあえず自分が満足できるモノを作り続けることしか、個人の芸術家にはできないのです。で、社会はそれに大抵後から追いついてくるのです。現在では神のように扱われるバッハが死後何十年も忘れられていたように、ヴァン・ゴッホの『ひまわり』が家畜小屋の仕切り板に使われていたように、芸術家の活動とは本来お金を稼いだり知名度を上げる為のモノであってはいけないのでしょう。僕には僕にしか出せない味の珈琲が作れます。ヴァイオリン組曲なんかはその典型です。でも、それは受け取る側の状況よって味が変わってしまうために、現在ではまともな評価は受けないのです。
by Alfred_61
| 2006-12-04 03:26
| 日記
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