ひょんなこと、といえるかはわかりませんが、自分が如何に自由に作曲をできる環境にあるのかを気づかされる出来事がありました。アカデミアにいた頃は、どういう曲を書かなければ賞は取れなくて、先生方も個人のオリジナリティーが学術界の大きな流れに反していれば"間違っている"と表現され、たとえば卒業論文としての作曲でそういう型破りなものを提出した場合、学位が貰えないなんていう強制的なオリジナリティー潰しの社会が、世の中には実際に存在するのです。 近代作曲で成功し、有名になっている人たちというのは、つまりそうやって流れに乗る形で、はやり廃りに合わせたオリジナリティーのない音楽を作ってきた人たちであって、しかもそういう人たちや彼らの音楽を聴くことや知っていることに誇りやプライドを持っている、いわゆる現代音楽マニアの人たちなんてのが存在することが、僕には甚だ疑問に思えて仕方がありません。そういう音楽の聴き方って、つまりはその音楽が良いか悪いかを自分の耳で判断できないから、外から与えられた情報を元に"何々賞受賞者だからその曲はすばらしい"とか"誰々が認めたからその作曲家はすごい"とかいう価値観で音楽をジャッジしているわけでしょう?比喩的に言えば本当はそれがどう美味しいのかわからないけれど、有名なフランスのワイン園で作られた年代物だからという理由で「美味しいねこれ」と口にしているようなものです。そんな飲み方をされて、ワインがかわいそうです。 別に偉くなる必要なんてないですし、別に人より優れていなくてもいいんです。そんなことより、自分が自分であることの方がよっぽど大切で、ダメな自分をすべて理解し認め、その上で向上心を忘れないことこそ本当に作曲家として優れた存在だと僕は思います。大きな賞を受賞したからもうその人は完成系だなんてあるはずもなく、下手をしたら10代の学生の方が斬新で勢いがあって違うタイプのリスナーに好かれる曲が書けるかもしれないのです。でも、そういうことをしたら"間違い"だって、学校では教えられるんですよ。本当に心から音楽をやりたいなら、音楽学校に行っても絶対に先生の言うことを聞かずに自分の道を究める度胸を持ち続けなければいけません。それができない人は音楽学校へ行かずに個人教師について教えて貰うのが最良の道だと僕は思います。 僕も、Anthony Joseph Lanmanもそういう世界で勉強してきました。やっぱりその世界では流れに従った作品を書いてきました。けれども、僕はもうそういうしがらみを取り払って、自分の書きたいものを書きたいだけ書くことが許されているのです。空と海への憧れを表現したからといって、テーマが非学術的だと言われることももうないのです。タンクの方はまだ大きな流れに従わなければいけないことがあるので、これからもしばらく時間をかけて縛り付けられていた自分を解放していかなければいけません。僕は音楽家であって、評論家ではありません。人にどうこう言う前に自分から変わっていき、それを言葉で理屈をこねるのではなく、音楽で表現していくのが筋です。色々ありますが、僕はやっぱり書かないといけないんです。どんどん作品を作り、それで人を掴んでゆかなければいけないのです。立ち止まるのも良いけれど、やっぱり前へ行かないと。
by Alfred_61
| 2007-08-19 00:43
| 日記
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