僕はヴァイオリニストでもありませんし、ヴァイオリンを極めたいとも思っていません。確かに僕はヴァイオリンが弾けます。でも僕はその能力を社会に還元しようとは思っていません。社会にその能力を主張して、そこにお金や栄誉を発生させるつもりは全然ありません。もしかしたら、僕のヴァイオリンは人を感動させることが出来るかもしれません。でも、僕はそれをするつもりはありません。 僕にとってヴァイオリンはリラクゼーションの一つであり、まあ例えればお風呂に入るのと同じようなものなのです。上手く弾こうと努力することは確かにありますが、それ以上に自分が心地よく感じられる音を追求することが、僕にとってはヴァイオリンを弾くという行為なのです。だから、僕は確実に死ぬまでヴァイオリンを弾くでしょうし、死ぬまで飽きることはなでしょう。僕にとってのヴァイオリンとは人に認められるためのものではなく、自分を満たすためのものだからずっと続けていける自信があるのです。 やり始めてすぐに神童と呼ばれ、成長したら天才とされ、世界最高峰で生きていく人なんて、僕は少しも格好良いと思いません。けれども、ふと偶然に、誰にも認められないのにずっと一つのことに挑戦し続けている人を見つけたりすると、本当に格好良いと思います。もっと言えば、結局がんばり続けて報われずに人生を終わる人なんて、本気で格好良い生き方だと思います。感動させられます。 認められるか認められないかは、たいした問題ではないと僕は思うのです。昔周りのおじさんおばさん方に「理想だけでは食べていけないよ」と言われましたが、これは今の年になって完全に間違った考え方であることを確信しています。はっきり言って食べていくだけなら、贅沢さえしなければ何とでもなります。でも、贅沢がやりたいだけ出来るような稼ぎがあっても、だから理想を目指して挑戦するという人生の充実感が絶対に手に入るとは限らないのです。お金に不自由しなくて生きる喜びのない人生よりも、お金がなくて生きる喜びのある生き方の方が絶対に格好良いと思います。僕はそういう生き方に本当に憧れます。 満たされないから、認められないからこそ得られるものは、実はたくさんあるのです。大成功してしまったら失ってしまうものも、実はたくさんあるのです。自分にとって一体何が本当の幸せとなるのか、それを社会の通念や僕に「理想だけでは~」と言ったような人たちからのプレッシャーなどを払拭して考えると、何がしたいかわからないとか、取りあえず目の前にある道を歩いてみるとかいうことはないと思うのですけどね。武士は食わねど高楊枝、なんて、本当にすばらしい言葉ですよね。自分にとっての充実はどこにあるのか、それは周りが押しつけてくるものとは違うし、周りの目にはまるで間違っているとかおかしいとかいう風に見えるんですよ。それで普通なんです。僕も食わねど高楊枝な生き方をしていきたいものです。
by Alfred_61
| 2007-08-26 02:57
| 日記
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