テーマ曲っていう概念、なんだかアメリカにいた頃、当地の文化ではあんまり強くないんだなと思ったことがあります。日本では特にサウンドトラックなんかへの関心が強く、最近では映画の宣伝クリップなんかでも「音楽/xxxx!!」とか書かれていたりしますよね。音楽が良いからその映画を見てみる、なんて実は日本を含むアジア圏にだけある感覚なんじゃないかなと僕は思うのですが、まあそんなgeneralizationはどうでもいいんです。 確かに、音楽が良ければ映像芸術のレベルは極端に上がります。でも、アメリカではどちらかというと複合芸術として映画を理解する文化的土壌ができているから、サウンドトラックを特に注目するとか、脚本を特に注目するとかはマニアの趣味程度でしかなく、あくまで聴衆は映画という一つの作品をまるまる楽しむのではないでしょうか。映画の楽しみ方という意味で言えばアメリカ流の方がよっぽどまともで、アジア系のとらえ方は重箱の隅をつつくというか、映画の本当の楽しみ方そのものが分からないというか、そんな感じに僕には思えます。 声優に有名人の誰々が出ている、とかテーマ曲は売れっ子ロックバンドの何々という、作品の内容とは全く関係のない曲だとか、そういう文句が宣伝に出てくると言うことは、よっぽど面白くない内容なんだろうな、と僕としては思うわけです。だってそうでしょう?映画はあくまで複合芸術。サントラだけが特に良い、ということはバランスがとれていないわけで、いくら良いものが含まれている作品でもそれを一作品として良いと表現することは難しいと思います。複合芸術は栄養バランスと同じで、例の古い風呂桶のあれです、一つだけ長い木の板があっても他が短かったら桶として機能することさえできないんですよ。 サントラサントラというと、僕は誰よりも先に菅野よう子が出てくるんですが、実際以前に僕が勤めていた役所の同僚は菅野が曲を提供しているアニメなら信頼して見る、というようなことを言っていました。それってどうなのかなと僕は思うのです。一人の才能に頼って、そいつの名前を出すだけである程度は売れるからスタッフの人選も安さ優先で選んだり、細かい所でさっさと妥協して作品としての作り込みが足りなかったりしたら元も子もないでしょう。当然ですが、菅野よう子がそれぞれのアニメ制作の監督をしているわけではないので、彼女には制作上の決定権も影響力も全くないわけでね。 だからというか、菅野よう子のケースではテーマ曲が映像作品を"食ってしまっている"ことって多いように感じます。テーマ曲は良いけど、蓋を開けれみればそれほどでもないかな、と思ってしまうわけです。サウンドトラックという芸術は難しいですけどね・・・音楽側があんまり上手く作りすぎると駄目だし、だからといって手を抜くと全体の質を下げるし、ホント、僕もいつか挑戦はしてみたいけどそれを専門にやっていきたいとは思いませんね。僕は偏った音楽人なので、音楽だけでやっていくのが一番性に合っていると思います。実際、僕の音楽もサントラとして使うのはきっと難しいんじゃないかと思います。世界観が強すぎて、それこそ作品のバランスをぐちゃぐちゃにしそうです。
by Alfred_61
| 2007-11-04 23:55
| 日記
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