最近僕の周りでは色々と変化があって、どちらかというと変化の多さにエキサイトする反面体力はジリジリ削られているような感じで、それはそれは充実した生活なのです。そんなことをアメリカにいるドラムのジョンにメールしたのですが、ジョンはヤツらしいカリフォルニアジョークで「日本では少ないことは良いことだろうけど、俺の今の人生は何もかも少なすぎる」と言っていました。 実に趣味の良いジョークです。日本では、例えば薄味であればあるほど高尚で高級であるかのように思われたりしますよね。京都料理なんてその極みのようなものです。そりゃあ実を言うと、薄味なのは素材の味を最大限楽しむためなのですが、味覚が鋭くないつまり普段大味なファーストフードや大衆料理を食べている人には素材の繊細な味なんて感覚することが出来ないんですよ。だからただ味が薄いだけにしか感じられないのですね。そりゃあタバコとか吸ってる人にはワインの味の違いさえ分からないのですから、そんな舌で素材の味なんてとても感じられるはずがありません。 それを皮肉ってジョンは"日本では少ないことは良いことなんだろう?"と言ったのです。全くヤツは灰汁の強い男です。しかし、それを聞いて、僕がブルーミントンに住んでいた頃の生活を思い出したのです。そう、確かに何も起こらないことが当たり前だったのです。あの頃の毎日はそうやって過ぎていって、でもだからこそ自分が本当にしたいことや勉強に100%集中することが出来たのです。特に何が起こるわけでもなかったので、同じように暇な連中を深夜にいきなり呼び出してはバーに行くのが楽しみだったものです。 けれども、今大阪に帰ってきてからの僕の人生はそれこそ変化の連続で、毎月毎週過ぎるのが本当に早く感じます。思い返せばあの何も起こらない町ブルーミントンには、大都市での仕事を定年退職した先生方が集まってきていました。何も起こらないことが幸せに感じられるなんて、若輩者の僕にはちょっと想像すらできません。最初の数年は異文化への対応で忙しかったのですが、慣れてしまってからの数年間は暇で暇で仕方がなく、早くアメリカを出たいといつも思っていました。 何も起こらないことはそりゃあ安定していて自分への負担も責任も少なくてすみます。けれども、歩くことをやめてしまうとある期間を過ぎたら本当に二度と歩くことが出来なくなるように、一度何も起こらない人生に逃げてしまった人にとって変化は最早驚異でしかなく、それこそ悪意を持ってでも変化の兆しを潰してしまいたくなるのです。でもそれは田舎の生活に限ったことではなく、"社会的に安定した地位"を得た人達は一様にそういう身の振り方をするのです。それが社会というものです。 転職するなんて夢のまた夢。離婚することは例えそれが自分の為になっても回避する。あまりにも成長のスピードが速い新入社員は出来るだけ成長できないように教育したり、そもそもそういう危険な可能性を持っている人を就職面接で落とす、なんて本当に社会には沢山溢れています。 安定した人生を避けて生きている人たちを、僕は本当に尊敬します。だってそういう人たちは、絶えず筋トレしているようなもので、雨の日も風の日も病気の日も一人で自分に挑戦しながら走り続けているのですから。雨が嫌だから家から出ず、病気だから体を休める。それはやっぱり守りの人生で、それを続けているとある時を境にもう二度と走ることが出来なくなるのです。 僕は体を壊したりすることがしょっちゅうあります。それでも、走ることはやめたくありません。宝くじが当たってもう一生働かなくて良くなっても、事業が成功して名誉職に就いて判子だけ押して高給を貰っても、それでもその一方で必ず地べたの泥をすするような生活を続けていこうと思います。偉くなっては今自分が持っている"走る"という能力も何もかも失ってしまうのですから、それは恐怖でしかありません。自分の意志で"偉くなる"ことを避けることが出来るなら、どうしてそれをしないという選択肢を選べるでしょうか。
by Alfred_61
| 2008-03-22 22:03
| 日記
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