今日は仕事がキャンセルになり、一日不労収入になったので、お昼過ぎから大阪城に桜を見に行ってきました。しかしまあ平日にもかかわらず何という人の多さでしょう。ここぞとばかりに有休を使って遊んでいる人ばかりなのでしょうか。退職後の老夫婦っぽい人たちなんて思ったよりも沢山はいませんでしたよ。 しかしまあ、思ったわけです。満開のソメイヨシノって、黒い幹に薄い桜色の花びらがふわりと乗って、それが色んな方向に伸びているから真下に立って見上げると凄い綺麗なんですね。それも、そんなソメイヨシノが並木になっているような所を見渡す場所に来ると、その壮観さに声が出そうになります。ソメイヨシノのトンネルなんかも大阪城にはあるのですが、そりゃあもう綺麗でした。 でも、そういう並木を見てから、園の外れにぽつんと立っているこぢんまりとした木を見つけると、いくらその木自体が満開の状態でも少し物足りなく感じてしまうのです。自分の感覚が沢山のソメイヨシノが咲き乱れる壮観な景色に慣れてしまったために、その一本のもつ美しさを100%感じることが出来なくなっているのではないかと、僕はそう思いました。 20分ほど人気の少ないところに立っているその一本の下に佇んでみました。そのソメイヨシノはやはり葉を一枚も付けず、黒い幹に淡い桜色だけを纏っていました。この木にとってみたら、今がまさに満開の瞬間であって、自分のすべてをかけて花を咲かせているんだろうなと、そう感じました。考えてみたら、木々は一本一本が精一杯咲いているだけで、それをまとめて見てしまっている僕の感覚が本当は少しポイントのずれた状態なのではないかと、そう思ったのです。 そんなことを考えながらはずれにある桜の一本を見つめていると、なんだか胸がいっぱいになってきました。これを美しいと言わずしてなんと言おうかと、そう思えてきたのです。吉野の千本桜とか有名ですが、桜にしてみれば一本一本が全力で咲いていて、それが桜の本当の美しさなんだと僕は思うのです。 "桜一本"という単位で桜を見るのではなくて、"ここにしかないこの桜"という風に、その一本一本を独立した個性として見ることは、本当はとても大事なこと何じゃないかと僕は思います。例えば高校や大学の入試で"一人の受験者"とその人を見るのではなくて、"○○さん"という個人として本当はその人は評価され審査されるべきであって、全体の中でどうであるかなんて本当はどうでも良いちっぽけな形骸の価値観でしかないのではないかと、僕はそう思います。ただ、それに必要なのはそれを享受する側、桜の例で言うところの僕の立場に立っている人の能力であり感性です。学校側が個人の個性を評価できるだけの能力を持たないならば、一人一人を審査するのではなくて全員ひとまとめにして比べるしか、まあ出来ませんよね。そんな学校、そういうことをしている時点でどうして受験する理由があるのか僕には甚だ疑問でしかありませんが。
by Alfred_61
| 2008-04-03 16:12
| 日記
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