ギターって、自分から思い立ってやろう、みたいな感じじゃなくて、人生の流れの中で縁と言うかそういうものがうまく噛み合って、自然と弾きたくなったり、脳死で弾き続けたりする楽器だと思うんです。 なんだろう、誰かに与えられるものではないというか、高い楽器かどうかとかでもなく、なんというか難しいですが親に習わされるようなものではないというか。弾くやつは周りの勧めとかなくても弾いてるだろうし、やめろと言っても弾き続けるやつは弾き続けるし。 最近、ギターという楽器のそういう特質をちょっと舐めていたというか甘く考えていて、ちょっと痛い目に遭いました。ホント思うのですが、例えばドラムも同じだと思うんですよね。僕は一度も「自分のドラムセット」を持った事はありません。でも学生時代はずっとドラマーでしたし、何度もライヴもしました。ああいうものなんですよね。本当に気持ちがあればどんな状況でもやってるだろうし。ギターも同じだと思うんですよ。 まあ、流れに身を任せ、ギターが向こうからやってくるような、そんな感じになればベストかなと。
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by Alfred_61
| 2023-10-07 23:32
| 日記
ずっと自分が大好きな世界に浸っていられるなら、時に何かをリセットする必要はないと僕は思います。でも、そういう感じであったからこそ、僕は音楽学校時代に「無理しすぎで倒れないか心配」と何人かに言われていました。おそらくは、いくら好きなことであっても人としてのサステナビリティーを考えるなら小まめにリセットし、3歩進んで2歩下がるような生き方をすべきなのだろうとは思います。 僕は物事を忘れるのが苦手です。一度覚えたら忘れる努力をしても忘れられないのです。それがギフテッドなのか何なのか知りませんが、おかげ様で寝ている間も仕事のことを考えたりしてまともに心をリセットできないような時期があります。正直ここ2年くらいそういう状態が続いていたのですが、最近漢方薬で睡眠の質を上げようとしてみたところ少しは効果があり、数日に一回は眠っていたことを覚えていないくらいにぐっすりを眠れるようになってきました。 覚えていない、ということは空白の自分があるわけです。僕は忘れることが苦手なのですが、そもそも記憶に記録されていない時間というのがある、ということが知覚できているということが実は大きな意味を持っています。日常のすべてを覚えている状態を何カ月も続けていると逆に「起こったことを覚えていない状況は避けなければならない」と勝手に自律神経か何か知りませんが思い始めるんですね。余計に悪循環を生んで物事を記録し続ける動きを脳がしますので、さらに睡眠の質は下がると。 何も覚えていない時間がある、ということは同時に「ああ、覚えてなくてもいいんだ」という緊張の緩和につながります。そうやって緩めることが数日に1回でもできるなら、実はできない日常部分でもそうやって緊張が緩和され、日々の生活自体の質も改善するのです。つまり、「睡眠の質を上げる」ということは「日常に空白の時間を作る」ということなのではと思うのです。大事なのはこの「空白があった」と自分がはっきり認識できることであって、その割合やその空白に対する感覚を見直していくとさらにいろいろなものが好転するのではと、そう僕は思います。
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by Alfred_61
| 2023-10-03 23:14
| 日記
音の考察かどうかはまあ別として、曲を書くときにも必ず考えなければいけないことですが、時間軸でその上に起こる事象は変化します。これは純粋にすべては変化しているという意味ですが、そう、「すべて」です。まるで曲を聴いている側がその3分の曲を聴き始めたときと聞き終わるときで全く同じ状態なことはなくて、受け取る側も常に変化しています。作曲の妙の一つでもありますが、曲を聴き手によって楽しめるものにするためには、受け取る側の状態変化を想定することは必ず作曲時に考えなければいけないことだと僕は考えています。まあ、言い換えてしまえば曲を書いている最中に「リスナーとしての自分」を作曲者としての自分とパラレルで感じられる人にとっては特に理性で考えるところでもないのですが。 恋愛なんかでも僕は同じだと思っていて、例えば〇〇は美味しかったから今度食べさせてあげよう、という愛を自分の中に感じたとしましょう、それを相手に伝えても時と場合によっては「このクソ忙しいときに」とか「体が疲れて」とか年食ってくると「どこどこが痛いのにわざわざ外出なんて」とか「今週お金ないのに」とかまあいろんなファクターで純粋に受け取ることが難しい状況が出てきます。受け取り方は十人十色で、音楽では聴き手のフォーカスを引き寄せたりする技術もあるのですが、日常生活や恋愛ではちょっとしたところに本来は相手に対する気持ちが含まれているんですが、それが慣れなどで受け取り手からすると感謝も愛情も感じられなくなって素通りしてしまうのですね。すれ違いって、そういった細かいことの積み重ねで結論として発生することであって、それを防ごうと思うならば一つ一つの愛情をお互いにきちんと感じられているかを日々感じあえるように過ごすべきですね。というか、そう過ごせないならすれ違おうが何だろうが因子はすでにそこにあるわけで、物事が起こってから後悔したって遅いわけです。 僕は作曲家なので、細かい心の変化には敏感だと思います。過去の記事にもきっと書いていますが、僕は声のトーンでその人が僕に対して抱いている感覚がある程度感じられます。内容が何であれ、ですね。敏感であるからこそ疲れることのほうが正直多いですが、ミュージシャンって「それでも人が好き」だからミュージシャンなんだと僕は思います。(なのでロックスターなんかも自殺は多くても他殺は少ないんですよね・・・自分以外のすべてを愛するという土台があるからミュージシャンなんだと僕は思います。) 昨日の記事でしたか、「対位法の生む緊張レイヤー」をメンションしましたが、実はこのレイヤーはこの記事のトピックと深く関係しています。どんなに美しいメロディーも、どんなに格好いいリズムも、時間の流れによって受け取り手側の感覚が変わります。それをコントロールして、例えば愛情をきちんと愛情として伝える、もしくは受け取り手がきちんと受け取れるような形にする、ということも、実は作曲家が行っている創作の一部であります。
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by Alfred_61
| 2023-10-01 15:13
| 音の考察
いやはや、こんな過去の自分に喧嘩を売るような記事をね、書くとかね、ホント。ホントに因果なものですが僕は大学で作曲を勉強している頃は「オーケストラ曲なんて課題以外で書く動機なんてねえよボケ」と思っていましたが、ここ数年特にコロナ渦前年くらいから僕はオーケストラやウインドアンサンブルの大編成曲しか書いてないんですよね・・・ホントなんだこれ。 曲を書く段階ってのがありましてですね、僕にとっての流れでしかないですが。今書いているTimpani Concertoは作曲過程をすべてキャプチャしていてデータ化しています。完成した暁には編集して「リアルな作曲過程」としてYouTubeに投稿する予定です。今やってるのはその流れに乗っているのですが、基本的に「必要な音とアイデアを書き落とす」段階です。具体的に何をしているかというと、ソロのTimpani、オルガン、Xylophoneの3つだけに楽器を絞って書いているんです。構成的にどうしても必要な3つをピックアップしただけなんですけどね。 まずはこの3つの楽器で「音を書いていく」ことに集中します。ここでは何の楽器を使うとどんな音色になるか、何と何の楽器を合わせるとどんなハーモニーになるかなどは一切考えていません。まず「音」として必要なものを組み上げる作業をするのです。ちなみにその過程動画でもどうせ説明することになりますが、ここでは曲の構成要素をレイヤーにして組み込んでいきます。例えば僕のよく使うレイヤーの1つが「休符レイヤー」です。音が鳴るか鳴らないか、というポイントにだけフォーカスしたレイヤーがあり、それとは別に「対位法による緊張レイヤー」や「和音構成数レイヤー」、「繰り返し構成レイヤー」や「フレージングレイヤー」などがあって、まあ、細かくあんまりここで言うと詮無いのでそんな感じです。 なんでしょうか、「音を書いていく」のはイコール「僕=作曲者にとって理解可能な曲の目的を明確に表現した状態」を作っているのです。聞く人によってはその形態ですでにいい曲だ~なんて言ってくれますが、僕としてはそこは着地点ではなくてその先の工程が予定されているのです。目的を自分が見返して何年後でもすぐにわかる形にさえ書けたら、次の作業がオーケストレーションです。ここまででわかりやすいかと思いますが、オーケストレーションなんてカスみたいな工数の作業です。今やっている作業のほうが遥かに大変で、形になってしまえばオーケストレーションはある程度「作業」になります。とはいえ、そこでアイデアを組み込む余地はもちろんいくらでもあるのですが。 しかしまあ、こうやって書いてみても、たぶん作曲したことない、できない人からすると何言ってるかわからないんだろうなと思います。やっぱり、実際に書いている過程を記録してみせるのが一番わかりやすいし、その方法だと御託を並べているよりも説得力もあり、そして受け取り手によって意味もいい感じで変化して教材としての機能はかなり高くなるでしょう。いやホント、頑張って書かないとね。僕が社会に残せるものとしては、自分で考えても意味のあるものにきっとなると思うので。
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by Alfred_61
| 2023-09-28 23:20
| 音の考察
時々どうしても音楽の意味を理解されていない場面に出くわすことがあります。個人的には何故理解されないのかを理解できないことが多いのですが、もう具体的に言います。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏15番第第一楽章出だしのセカンドヴァイオリンは、ヴィブラート使わないで欲しい。曲がそう語っているのに・・・。ブラームスのピアノトリオ第一番のヴァイオリンが最初に出てくるところはきちんと他と足並みを揃えて和を大事にした登場をして欲しい。俺が俺がと主張した登場ではなくてここはアンサブルとしての一体感を出せと曲が語っているのに。 個人的には、曲が伝えてくる希望の形というのはまず一つきちんと守るべきだと思います。そして、もしできるのであれば、曲が語ること以上に、言い換えれば曲自身も気づいていない表現を取り入れることが出来れば最高だと思います。この2点は全く別のポイントですが、奏者が勘違いすると目も当てられないカオスになります。 そして僕がよく思うのは、後者部分に「その時代にそう言う奏法はなかったからダメ」という価値観を持ち込まないで欲しい点です。どうしても勉強してきた人間ほどそう考えがちだし、そこに先生の威厳みたいなのを混ぜる人は多いですが、それじゃあ曲が被害者になります。曲は気持ちよく聞いてもらえればなんでも良いわけで、聴き手はすでに曲が作られた時代の人々ではないわけで。今の時代の聴き手が聴いて気持ちいい演奏すればいいわけで、モーツァルトの時代と同じことを今も続ける理由は所詮学者のエゴであって、曲たちが望んでいることではないと僕は思います。 こう考えるのは多分僕が作曲家だからなのだと思います。僕は作る側の気持ちが分かり、きっと天国にいる大先輩方も同じ気持ちだとかなり自信を持って言えるところがあります。それが簡単位理解されることではないのは長年生きてきて分かっていますが。どうしても曲が可哀想になる事は残念ながらあります。
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by Alfred_61
| 2023-09-27 21:11
| 音の考察
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