実に久しぶりに今日、"普段着"を着ました。ここ最近はどこへ行くのもスーツにネクタイで、帰ってきたら服を脱いで寝るだけの生活でした。それももうここ一ヶ月くらいそうなのです。ここまで来ると、"普段着の自分"って一体何なのか、そんなことを考えてしまいます。僕の人生の中で自分の着たいものを着る時間がほとんどゼロなんて、つまりは僕の人生がただのハリボテなのではないかとさえも思えてくるのです。 自分は今生きている自分とは全く違う間所にいて、それは外から他人からの視点では絶対に視認することが出来ない、とそういう感じです。他人が絶対に知ることのない自分というものこそが実は本当の自分であって、自分自身は"他人に対して他人"である生き方を今はしているのです。僕が本当の僕であることの出来る時間は今の状況では月に数時間あるかどうかという絶望的な状況ですが、だからといって自分が自分であることを忘れたり否定したりすることは絶対にないのです。 昔良い友人に言われた言葉があります。 けれども、世の中に、世界のどこかに、 キミをキミとして理解してくれる人が一人でもいるのなら、 キミはそれ以上に一体何を望むの?" 僕は作曲家であり音楽家であるので本当はより多くの人に理解されることを努力しなければいけないはずなのですが、この友人の言葉は色んな意味で未だに僕の心の中にこびりついています。自分を理解してくれる人が世の中にいるのだから、その数が少ないということに対して嘆いて一体何の意味があるのか、ということを彼女は言っていたのです。そして、僕がその言葉から感じたのは、ほんの一握りでも僕を僕として、個性として認識してくれる人がいるのなら、その人達のためにすべてを捧げて自己表現をしていくべきなんじゃないかと思うのです。たった一人のファンの為に、大金を失ってもライヴをする、というようなことでしょうか。それでも見に来てくれた人に対して全力を尽くすことこそ、本当は僕たち音楽家がするべきことで、例え僕が今"普段着"であることがほとんど許されない状況にあっても、それでも僕を作曲家荻野睦史として認識してくれる人がいるのですから、そのために今は遅くても一歩ずつ進んでいくしかないのだと思います。ただ、その一歩ごとには全力を尽くすと、そういうことです。全力で普段着を着る、ということなのかもしれません。
by Alfred_61
| 2009-01-27 22:14
| 日記
|
ファン申請 |
||