今週に入ってから今日で4曲目を書き上げました。ちょっとやり過ぎかとは思いますが、今はかなり集中して制作に打ち込めているので、とりあえず表現したいものが一通り形になるまでは頑張ってみるつもりです。そんな中、先日高校生の時からお世話になっていて、アメリカにいる間ずっと顔を出せずにいた合唱団にご挨拶するため京都まで行ってきました。 僕が音楽のおの字も知らない頃一から教えてくれた先生に4年ぶりに会いました。練習が終わってから、しばらく昔の話や今の話そしてこれからの話を先生と二人でしました。気持ちだけはあっても技術も経験も感性もどれ一つ世間に通用するものを持っていなかった頃の僕を知っている先生と話をしていて、一番強く感じたのは過去の自分と今の自分の乖離でした。 親や先生は、生徒や子供が自分の知らない間に想像もつかないほど成長していることをなかなか感じることが出来ません。先生は長い話の末に「想像以上に前へ進んでいるな」と言ってくれましたが、それでも先生に今の僕が出来ることをすべて見て貰うことは出来ません。自分ではない誰かに自分を知って貰うことが、こんなに長い間付き合いがあって面倒を見てくれた人に対しても容易ではないことを、とても強く感じます。 昔の僕と今の僕では、考えていることも見ている世界も吸っている空気も違うのに、合唱団の人々も先生も、まるであの頃から何も変わらないようにそこにあって、変わらず笑っていました。僕の友人でも、昔はとても自分に近くて自分を理解してくれると感じていたのに今はとても遠く感じるヤツがいます。きっと、それも同じことで、社会も、人々も、みんな昔のまま変わらず生きているのに、僕だけが一人日々変化して、どんどんそういう人たちから距離を広げていっているのです。 自分の両親に対して感じることも、兄貴に対して感じることも、きっと同じなのです。僕がいつの間にか変わってしまったために、彼らと僕はもう住む世界さえも違ってしまったのです。そしてそれを相手に理解して貰うことは出来ませんし、例えそんなことをしたとしても詮の無いことです。人は誰しも変わらず生きていきたいと感じているもの。僕のように変わっていくことこそ人生だと考えている人間はどうしてもそういう大多数とは一緒になれず、いつの間にかはみ出していくのです。 僕自身は、昔も今も"変わりたい"という一つの思いを一貫して持っているので、"自分は何も変わっていない"と感じるのですが、僕にとって昔の通りに生きるということは昔とは違う自分になっていくということなのです。安定することを簡単に捨て、立場も簡単に捨てて裸一貫になり、そうやって日々自分を変化させていくのです。きっとそんな生き方は社会的に"間違っている"のだと思いますし、そういう生き方をすれば社会の和からはみ出していくのです。 なんて距離を僕は歩いてきたのだろうと、そう最近思います。成功することよりも、失敗することよりも、変わらないことよりも、もっと大きな何かを僕は目指して生きてきました。それはこれからも変わりません。だから、きっと昔からお世話になった人たちも、今仲の良い仲間達も、いずれは僕の方からゆっくりと離れていくことになるのでしょう。
by Alfred_61
| 2010-03-13 21:48
| 日記
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