もしここに一つのメロディーがあったとします。作曲家として、そのメロディーに和声をつけなさいという課題が出ました。和声をつけるというのは言い換えればコードをつけていく作業で、まあつまりは伴奏をつけろ、ということです。さて、その状況で自分は一体どういう仕事をするでしょう。 メロディーの流れに従い、トニック、サブドミナント、ドミナントと調性に従って三和音構成のコードをつけていく、というのがまあ一般的な"優等生"的発想です。つまり、CメジャーとかDマイナーとかGメジャーセブンスとかを使ってコード進行を作り、最後はきちんとカデンツで終わる、という方法です。なんだか専門用語だらけですが、これ、全部クラシック音楽から生まれた音楽理論です。 でも、そもそもコードって、Cメジャーとか既存の概念に沿わないといけないのでしょうか。C-D-Eとかいう三和音コードはダメですか?なぜダメなんですか?そんな伴奏聞いたことがないからですか?誰がダメだと決めたのですか?歴史ですか?社会ですか?お金持ちの権力者ですか? 僕が和声をつけると、モーツァルトが書いたメロディーでもOginoの音楽になります。JASRACが盗作だと言い切れないほど、同じメロディーなのに全く違う音楽になります。なぜかというと、僕には僕の和声言語があって、つまりは僕はトライアド(3度の和声)による機能和声法を全く使わないからです。では無調音楽なのだろう、と音楽を多少勉強した人なら口を揃えて言うでしょうが、これがまたそうでもないんですね。僕の音楽に調性はあります。ただ、機能和声と違うだけなんですよ。つまり、西洋音楽の歴史に存在しないが同じ12音で作られた和声法なのです、僕の和声言語は。 面白い例を言うと、"君が代"の出だし、レードーレーミーソーミーレーというあのメロディーに対して、実は機能和声ではコードをつけることが出来ないんですよ。だからあそこだけ伴奏、ないでしょ。でも、あれもれっきとしたメロディーであって、"和声をつける"ことは出来ます。ただ、僕がつけるとOginoの音楽になりますけどね。 和声とはこれまた深い世界で、まだまだ見つかっていない和声の効果というものは沢山あるのです。そもそも、それをすべて解明することはきっと出来ないと僕は思います。元々そうだったんですよ。元々和声、コードというものはあまりにも自由であまりにもとりとめのない音楽要素であって、それを規律や理論という方程式を作ることで規制したのが所謂"機能和声"なのです。 自分にしか作れない音楽を作りたければ、先ずはこの機能和声から自由になることですね。ただ、最後に絶望的なことを言いますが、機能和声から自由になる、ということはすべての感性(このコードで良いのかを決断すること)は自分にかかってくる、ということです。何にも頼れないし、参考にも出来ないし、誰にも"正解"とか"間違い"とか教えて貰うことも出来なくなります。それが怖いなら、機能和声にしがみついていればいいのです。それでも純粋な自己表現を求めるなら、自分自身に挑戦することは、作曲の勉強としてとても意味のあることだと僕は思います。
by Alfred_61
| 2010-03-20 22:55
| 日記
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