芸術とはなんなのか、そう考えると日本人のほとんどが"よくわからない"と答えるのではないでしょうか。綺麗な絵であっても、それが"芸術"であるというのとそれが"美しい"というのがどうして違う言葉で表現されているのかが分からないのでしょう。1973年に発表された前衛生け花師の中川幸夫の作品で"花坊主"というものがあります。カーネーション900本で作られたあくまでも"生け花"の作品なのですが、この表現力、この圧倒的な芸術、これを見て何も感じない人はいないと僕は思います。それが恐ろしさやおぞましさであってもそれはもちろん正しいのです。これを見て"素晴らしい芸術ですね"と言う必要はありません。これを見て胸がドキドキする、それが芸術のエフェクトです。 この不思議な"力"を感じない人はいないでしょう。この作品に心を何らかの方向へ揺り動かされない人はいないでしょう。人の心に影響を与えるもの、それもスタイルや方向性や影響の具体的な内容は何でも良いのですが、そういう特殊な力を持った"作品"のことを、芸術と言います。芸術には色々な形態がありますが、"芸術"と名の付くものは一応に人の心に働きかける特殊な力を持っているのです。 さて、ここで音楽に話を持ってきますが、そもそも"芸術音楽"というものを社会はあまりにも誤解しすぎていると僕は考えています。芸術とはつまり論理や綿密な計画性によって組み上げられたパズルだと思っている人が多すぎる。そして、手段を目的と完全に取り違えている。論理や計画はあくまでもその先にある"人の心に働きかける力を作品に持たせるため"に必要なツールであって、それそのものが目的ではないのです。僕は別に理論で作曲することを否定しているわけではありません。ただ、"理論がしっかりとあるんだ!"といくら口先でほざいた所で人の心に影響出来る力がなければそれは"芸術"ではありません。 僕は本音では、芸術を作るためには理論は必要である、と考えています。しかし少なくとも、"芸術音楽"を作ろうと考えるならまず最初に"芸術音楽とはなんぞや"ということを理解くらいはしてから取り組んで欲しいものです。楽派や社会風潮や流行に踊らされてただの好奇心で芸術を語られても不愉快なだけです。 "音楽における芸術性"とは具体的にどういう事象のどういう技術を言うのか、そこが分からないことには作曲の勉強なんてするだけ無駄でしょう。そして、具体的に芸術音楽に必要なのがただの知識や論理や歴史ではないこと、言い換えれば日本の大学入試勉強のように万人が努力さえすればこなすことの出来るものではない、ということを理解し、そこで自分にその"一線を越える"力がないと実感出来るなら、音楽を志すのはそこでやめるべきだと僕は思います。僕はアメリカの音楽学校でそうやって作曲をやめていった学友を沢山見てきました。 "花坊主"の芸術性は崇高なレベルで芸術音楽と似通っている部分があります。ただ、音楽という芸術には少々特殊な性質があり、絵画や造形では表現できないことが出来る分、それらとはあるべき姿が違うのです。音楽はあくまでも音を楽しむもの。それがなければ音楽は音楽ではなくなり、それを音楽用語で"雑音"と言います。雑音と芸術音楽の違いも分からないなんて、そんな人は要するに不感症かなにかなのかなと僕は思うんですけどね。それって、ご飯を食べても美味しいと感じないのと同じレベルの話ですよ?う~ん、どうして教育はそんな人としての根本的な部分を教えることさえ出来ないのでしょう。
by Alfred_61
| 2010-04-25 20:52
| 日記
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