人を愛することに失敗したことがありました。僕自身はもちろんのこと、その人のことを僕はひたすら不幸にしてしまいました。人生をぶち壊した、と言っても過言ではないかもしれません。もう10年くらい前の話です。さすがにもう罪悪感はありません。というか、どちらかというと僕の方が被害者だったんですけどね。 ただ、それを失ったことが辛くて、あの頃何度も泣きました。何度も泣いて、それでも悲しくて、どうしようもありませんでした。けれども、しばらく一人で泣いていると、だんだん違う感覚がわいてきました。 こんなにも誰かを想える自分、自分の中にある誰かに対する想い、報われなかったしきっと時間と共に風化していくんだろうとは思いましたが、何よりも自分の中のその気持ちがあまりにもキラキラと輝いて綺麗に感じました。もしかしたらあの時、"綺麗"という形容詞の本当の意味を生まれて初めて納得できたのかもしれません。 あの頃から、僕は"失敗"ということに関して、それ以前とは違う感覚を持つようになりました。上手くいかなかった、失敗した、そう気づいたときにはまあもう取り返しがつかないのですが、それはそれとしてそこで悔しいと思ったり、残念に思ったり、悲しくなったり、そんな自分の中にわき起こる感情を綺麗だと僕は感じるようになりました。 失敗することは辛いし、悔しいし悲しいです。社会的にはそれこそ"経歴に傷が付く"的な考え方もありますし、特に日本では何事もなく生きていることに高い評価が与えられます。"ストレートで大学を卒業した"とか、"新卒"という言葉もそうです。浪人していたり留年していたりすることはもちろん、ワーキングホリデーで休学していてもそれだけで"新卒"という括りから外れてしまいます。つまりこの国では社会的に失敗することは暗黙のうちに"悪いこと"と刷り込まれるわけです。 でも、本当はそうじゃないと僕は思います。失敗すること自体が良いことだとは言いませんが、失敗するから得られることも沢山あります。少なくとも僕が芸術家として綺麗だと感じたのは、失敗したときに人の心に溢れる悲しみだったのです。あの頃、当時一番大事にしていた物を壊してしまった僕が日々聞きあさっていた音楽は、そんな悲しみに溢れた音楽でした。僕が人の心に届く音楽を書こうと最初に挑戦したのは、そういう音楽を書いてみるということでした。 あの頃からもう10年経ちましたが、僕自身も変わりました。悲しみを純粋に表現するのは原石のままの美しさがあるともちろん今でも思いますが、僕が今書く音楽は、悲しいことは人生にも世界にも溢れているけれども、だからこそそこには綺麗なことや美しいことや生きていることを実感できる希望の欠片があり、それを人に伝えることで誰かの心にある悲しみを空に返す、そんな音楽なのです。 僕の音楽は幅広く社会に認められるものではありません。僕にとってはそんなことにあまり意味はありません。でも、たとえ一人でも僕の音楽を聴いて、悲しいことも嬉しいことも沢山ある自分の人生に綺麗なものが溢れていることを感じてくれれば、僕にとってそれ以上に嬉しいことはありません。
by Alfred_61
| 2010-12-22 20:16
| 日記
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