僕は昔、ある一人の人をずっと信じ続けて、その人が僕から離れていっているのを感じていても、それでも僅かな可能性を信じて、その人のことを信じていました。結果として、その人は僕のことを裏切り、僕は信じ続ければ報われるわけではないことを生まれて初めて知ったのです。 その経験は本当に辛かったです。自分が信じている人、その人は僕がその人を純粋に信じ続けていることを知っていてそれなのに僕を裏切ったんです。誰かや何かを信じても、最後の最後で手のひらを返されて僕自身がすべてを失うことになる、そんな経験だったのです。その経験以降、僕は生き方を考え、いつしかとある生き方を選ぶようになりました。 僕は自分が相手にして欲しかったけれどして貰えなかったことを、他人に対してするようになりました。ただし、そこには自分の心を絶対に置かなかったのです。目の前で困っている人がいたら助け、泣いている人がいれば手をさしのべて話を聞いてあげました。自分の犯した罪への罪悪感に悩む人の相談に乗り、報われなかった人たちの肩を叩いて慰めてきました。 けれども、だからといって僕は自分が手をさしのべた人たちに何かをして欲しいとも、僕に対して好印象を持って欲しいとも思いませんでした。僕自身がさしのべた手を利用されてその果てに裏切られても、それがその人の未来に通じるなら喜んでそれを受け入れました。僕は何度裏切られても、その人が再び僕を必要としたら何度でも手をさしのべました。僕は、僕自身が儲かることも、栄誉を得ることも、信用を得ることも、何も期待もしていなければ望んでもいませんでした。 推測ですが、大学時代に交友のあった女性達の中には、そんな僕に好意を抱いた人もいたでしょう。けれども、僕はそもそも対価を得ることを期待したり望む脳みそのネジが壊れているのです。一般的に男性が女性に優しくするということは、その女性から好意を受けたいと願うからなのでしょうが、僕はそこを全く望まず数多くの女友達に手をさしのべてきました。そもそも、相手が女性であるかゲイであるか年上であるか貧乏であるか金持ちであるかそんなことは僕にとってどうでも良いことでした。 きっと、僕の心はずっと閉ざされていたのです。ただ、僕は自分が受けた悲しい仕打ちから、絶対に誰かに対して自分はそういうことはしないと決めていたのです。そして、僕は誰かを信じることの裏で自分が相手にそんな僕の想いに応えてくれることを期待していた、その事実があったから裏切りを許すことが出来なかったのだと考えました。だから、僕は誰かを信じるときに、最初からその人が僕の想いに応えてくれることを期待も望みもしなくなったのです。 本当に身勝手な人間だと思います、自分を。相手がどういう選択肢を選ぼうが、問答無用で私は貴方を信じる、と言ってこられたらそれは変なプレッシャーになります。簡単に一般的な価値観に当てはめて例えると、1億円する家を「差し上げます」と言われて受け取ったは良いけれど、そんなことをして貰ったらお返しをしなければいけないように感じますよね。けれども、僕はどんな人からも"お返し"を受けることを拒否し続けました。 "無償の愛"なんて綺麗事です。僕はただ身勝手に厚かましく、泣いている人を片っ端から助けているだけなのです。反マザー・テレサ的な思想から言うとただのお節介ですね。それでも自分が受けた心の傷を持って、僕は今も身近に泣いている人がいたら手をさしのべ続けています。
by Alfred_61
| 2011-01-05 23:45
| 日記
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