小手先の技術を身につけるだけで、実際に社会では必要とされそれで仕事をしていくことが出来ます。単純に手先が器用なだけでもそれはそれで使い道があるのです。けれども、本当にその道のプロフェッショナルとなりたいなら、小手先の技術以前にその"道"というものが自分の身体に染みついていなければいけないと僕は思います。 作曲をしたい、と考えて理論を勉強して、さらに高等技術を習得し、それらを五線譜上にちりばめるだけで作曲をしたつもりになるのはこれまた大間違いで、そもそも根本的に曲を書くということに対して自分が持っている意味や信念や哲学がなければ、所詮は機械にランダマイズした作曲技法を適当に配置させたのと何ら変わりはないわけで、それこそ別に人の手で作る必要なんて全くないものになってしまうのです。 信念・・・とは言いますが、どちらかというと作曲なんかの場合には、理論なんてすっ飛ばして問答無用で「自分の価値感上この音が良いからこの音なんだ!」と言い切れる審美眼のようなものがそれにあたると僕は思います。どの音を選べばいいかを、例えば世間の流行がそうだからという理由で選んだり、逆に世間に対するアンチテーゼで選んだり、流派や楽派やそういう外的な影響だけで決めてしまうなら、それはつまり別にその人が作る物でなくて良いわけで、もっと言えば別に機械でやればいいのです。 人の手でなければ作れない物を作る為の技術、なんてものは本当は存在しません。そこにあるのは技術ではなく、哲学であり、感性です。その部分を磨くという努力なくして、例えジュリアード音楽院へ留学しようがその人でなければ作れない至高の芸術に到達することは出来ません。もっと言えば、海外留学をしなくても、日本屈指の音楽学校に入学しなくても、感性を磨くことは可能です。個人的に僕は、良い音楽学校に入学する前に"道"というものを自覚し探求し理解しておくことが、本当は正しい音楽教育の姿だと思うのですが。 作曲の先生でも、技術を教えることは出来ても"道"を教えることが出来る教師は世界にも数えるほどしかいません。Nadia Boulangerのように作曲家としての"道"を教えることが出来る人は本当に珍しいのです。だからこそ、僕たちは自分自身で探求し、自分の道を見つけていかなければいけないのです。それなくして、本当の芸術家になることは出来ないと僕は考えています。 例えば、映像技師上がりの映画監督が作曲家に「こういう物を作りたいからこうこうこうでこういう風にしてほしい」と細部まで指示をして、その作曲家がそれをそのまま言われたとおりに表現する、というのは言い換えれば機械ですよね。別にその作曲家でなくても他の人でも全然構わないわけです。そこにはプロフェッショナルとしての技術や感性が認められておらず、プロダクション自体がそもそも本当にプロフェッショナルな作曲家を必要としておらず、ただ小手先が器用で命令指示通りに仕事をする感情も感性もない機械人間を必要としているのです。 本当ならば、きちんと"道"を知り感性を磨き作曲家となった人には、もうお任せで良いはずでしょう。作曲の素人がどうこう言ってもプロフェッショナルの感性には絶対に敵わないわけで、曲を作る専門家なんだから作曲家はその映画監督が予測していた物よりも遙かに素晴らしい作品を作れて当然だと僕は思います。コンピュータの専門家なんかにはそうやってお任せするのに、どうして芸術家にはお任せにしないんでしょうね、不思議です。何が違うのでしょう。 まあ、それはつまり"本物の"作曲家がほとんどいなくなってしまったからだと僕は思います。任せられないんですよね、本当のプロフェッショナルじゃないから。小手先だけ器用になって中身がない曲が巷にあまりにも溢れすぎているんです。そりゃあ仕方がないです。少なくとも、僕はああいう曲しか書けない作曲家にはならないようにしようと自戒することしか僕には出来ませんが。
by Alfred_61
| 2011-01-09 23:54
| 日記
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