個人的に強く思うことがあります。僕は、オレガノの入っていないポテトサラダはポテトサラダと呼んではいけないと思っています。ただのこだわりですが、これはこれで僕にとってはどうしても譲れないものです。 こだわりや信念を持つことは大切だと思います。でも、そもそもこだわりなんて、自分を満足するという目的のために存在するわけであって、決してそのこだわりを社会的に評価されたり他人に誇って云々という目的はこだわりには付随していないものだと僕は考えます。つまり、ポテトサラダには必ずオレガノが入っていなければいけない、という僕のこだわりは、言い換えれば僕自身がポテトサラダを作るときに必ずオレガノを入れればそれで解決することでしかないのです。 逆に言えば、別に僕以外の誰がポテトサラダにオレガノが入っているか入っていないかは関係ないと言おうが信じようがそれはその人の勝手です。その人がそう信じるならその人はその気持ちを満たすように動けばそれで良いだけのことです。ただ、どうしても僕には、他人にポテトサラダにはオレガノが入っているものだという考えを理解して貰おうと必死にアピールするということは、つまり自分自身でその信念やこだわりに納得しきれていないから他人の同意をもって自分の感性を肯定しようとしているようにしか思えません。 美感や味覚というのは他人と全く同じように共有することがほぼ不可能です。不可能だから、自分が感じている感覚が本当に"社会的に正しいのか"分からないのです。分かる必要なんて本当は最初からないんだと僕は思います。大事なのは自分自身が美味しいとか美しいと感じるかどうか、それだけだと僕は思います。自分が"感じる"ということをそもそも出来ないのなら、出来ない自分を理解してやればいいだけのこと。分からないことは悪いことではなく、大事なのは分からないという自分を分かること。どっかのおっさんの言う"無知の知"ですね。 自分を認めることも出来ないなら、他人を認めることなんて絶対に出来ない、僕はそう思います。僕は少なくともポテトサラダにオレガノが入っていなければ、それはポテトサラダではなくてポテトを潰して何かと和えた物、と考えるようにしていますし、そこには自分が世界を見る上で自分自身が選んだ立ち位置があります。たかがポテトサラダ、とまあ周りからは言われるのですが、されどポテトサラダ、だと僕は思うのですが。 そういう風にこだわりがあるからこそ、自分自身にしか作れない芸術や感性にたどり着くことが出来ると僕は信じています。どうしてもそこに書く音符のピッチがドである必要はないのですが、自分がそれをドでなければいけないとどこまで強く感じこだわれるかが結果として同じ調性音楽を書くにしても同じ4/4拍子を書くにしても、AさんとBさんで全く違うものになる理由だと僕は思います。まあ、簡単な話です。別にポテトサラダにこだわりを"持たなければいけない"なんてことはありません。そんなもの無くても幸せに生きることは出来ます。こだわりが持てるなら独創へと進む道がありますが、こだわりが持てないなら一般に安定する、というだけのことです。そこには良い悪いなんてなくて、しかも自分が望んで好きな方へ進めるものではなく、ただ自然と自分には一つの道が与えられる、というだけのことです。
by Alfred_61
| 2011-01-29 23:31
| 日記
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