現代作曲家同士の会話では結構普通に語られることなのですが、時代の移り変わりと共に音楽のテンポは早くなっており、たとえスピード感がなくても短い時間軸の間に収められる音楽の情報量はバッハなんかの時代と比べてもかなり多くなっていると言われています。 それに付随して、チューニングの元となるAという周波数の定義も少しずつ高くなっています。これは高くすることによって張弦などの具合にでより大きな音量を出すためだと言われています。電気の力を借りることによってエレキギターなど、一人の音がとてつもない音量に増幅されるのが野外ライヴなどでは当たり前のように見受けられます。 しかしながら、どうもこれに日本というお国事情はあんまり合っていないように僕は感じます。都心に住むほとんどの人が集合住宅に住んでいるために部屋の中で楽器を演奏することなんてとても出来ません。だからこそサイレントピアノやアンプからヘッドフォンへシグナルを送って騒音を防ぐ工夫がされています。でも、そんなことをしてもどうしようもないものもあります。例えば声。歌を歌うなら自分の口にヘッドフォン端子をつっこんで、どれだけ叫んでも自分の耳にだけ聞こえるような仕組みは物理的に作ることが不可能です。 日本の音楽事情はこういう背景もあって、海外なんかとはかなり違います。自宅で吹奏楽器の練習ができる国ではやはり吹奏楽が盛んになります。それを日本が真似をしようとしたところで、社会事情的にそんなもの、文化として広がることは出来ないのです。何せ国土が狭いですからね。仕方ないです。学校のような特殊な状況においてのみ吹奏楽器なんて演奏出来るわけで、マンションでトランペットをパーと1音鳴らしただけで追い出されます。 そんなこんなで話は戻って時代と共に音楽が濃縮されすぎているというのは僕の勝手な持論です。例えば出だしの数秒を聞いてそこでもう曲の善し悪しを判断するなんて、そんなことは本当に近代になってから"普通"になった習慣だと僕は思います。出だしが悪くても・・・というか出だしをわざと悪くしてその分反動でその後の展開を良く聞かせるという手法を使っている曲かも知れないのですが、それでも世の中の大半の人は出だしが悪いだけでそれ以上先を聴きません。まあ、これがつまり情報の氾濫というものなのでしょうね。巷に曲が溢れすぎて一つ一つじっくり聞いている時間がないのです。ああ、現代人はなんと可哀想な時代に生まれたのでしょう。 僕が今年一年してきた路上演奏なんかでは、少しだけこの時代の流れに逆らった部分があります。偶然という理由があるので、結構道行く人は僕の演奏音楽をじっくり真面目に聞いてくれます。それも小一時間とかいう長い時間。これ、実は結構気に入っていたりします。
by Alfred_61
| 2011-11-06 23:55
| 音の考察
|
ファン申請 |
||