日本で大学推薦を辞退しアメリカで音楽を学ぶために勉強していた頃、ヴァイオリンを弓の持ち方から習っていた先生に自分が専攻としては作曲をやりたいことを伝えた時のことです。その先生は今でも80歳近くになってまだ現役で地方オケの指揮者をしているようなエネルギッシュな人なのですが、こんな時代に作曲なんて、という前振りと共にこんな事を言われました。 「作曲っていうのは、内から沸き出てくるものを我慢できなくなって、抑えきれずに吹き出してくるように起こるものだ。やりたい、やろう、と考えてやるものではない。」 当時の僕は19歳でしたか、まあこの言葉には結構ムカッときました。しかし当時は作曲のさの字も知らないような初心者でしたから、第二次世界大戦以降の日本音楽史を身体で体験してきた人の言葉に何も言い返せませんでした。 あれからアメリカ屈指の音楽学校で5年学び、フランスの名門音楽学校にも講習を受けに行き、色々な世界を見て色んな曲を書いて、今ならあの時自分が何と言い返したかったのかが分かります。僕が言いたかったのは、「そんなこと分かってるわ」ということですね。そもそも、僕はその頃には既にバンドの曲を沢山書いていて自分のバンドでライヴを続けていたのです。そうやって書いていた自分の曲に満足できない自分がいて、だからもっと学ぶために音楽学校の作曲科へ行ってクラシックを学ぶから、支援してください、とそれが言いたかっただけなんですよね。言い換えれば、別に「アナタに作曲のなんぞやとか教えて貰わなくても、それを自分の身体で経験しに行きたい」から応援して欲しかっただけなのです。 今となってはまともに作曲を学問として学びそして芸術として作品作りを続けて10年以上になりますが、曲が自分の中から溢れ出てくる状態にするか、社会生活を無難にこなすためにそこは蓋をしておいて金稼ぎに集中するかを切り替えたり出来ます。まあ、それが出来なければ本物の社会不適応者になってしまいますからね。 変な話、何故作曲をやろうと考えたかの原点は、単純にその"湧き出る"泉を自分の中に持っている事をその時点で自覚していたからなんですけどね。そうでなければ僕は小説家になっていたと思います。でも、先生が当時僕にそんなことを言った意味も分かります。あの言葉に対して折れずに向かっていけるだけのものをあの時点で僕が持っていなかったのなら、アメリカへは行かずにあのまま先生の元でヴァイオリンを習得し町の教師として先生から生徒を分けて貰って生活していく未来を選ぶべきだった、ということですね。 まあ、インディアナ大学時代の学友にも数人いましたけどね、作曲を目指すべきではないタイプのヤツは。こればっかりは願っても憧れても生まれ持った人としての性質のレベルの問題なんですよね。演奏、教育は道筋通りに進んでいけばある程度のレベルに行けますが、作曲だけは不向きな人間にやれと言ってもどうしようもないんですよね・・・。 僕が唯一師匠Sandstroemの言葉で背筋が凍ったのが、僕の前にレッスンコマを持っていた同級生に師匠が「お前は作曲に向いていない。今からでも遅くはないから、違う未来を目指しなさい」と言っていたタイミングで僕が師匠のオフィスへ入った時です。普段温厚で優しく、基本的に辛らつな言葉は使わないあの師匠が、その時ばかりは見たことがない獣のような眼光でしかし口調は落ち着いてそんなことを同級生に諭していたのです。ああ、本当に今思い出してもあれは怖かったです。 僕は逆に師匠からは非常に大事にして貰いました。学士課程の僕に対して、もう経験や技術は博士過程の学生達にも劣らない、と師匠のクラスに入った1年目から言われました。どんどん個性を育てなさい、どんどん自分が目指す理想を形にしなさいと、師匠はひたすら僕の背中を押してくれました。僕が荒いことをしていても、良いからどんどん書けとハッパをかけてくれました。学位なんてなくても作曲家にはなれるぞ、という僕の人生で下手をすると最も重い言葉も貰いました。 あの師匠があって今の僕がありますが、振り返れば日本にいた頃に一度ヴァイオリンの先生からそうやって試されたことがあったのです。僕が楽典を自発的に勉強し始めたのは15歳の時でしたが、ま~あどんな先生でも作曲なんて目指してどうするんだとか、さんざん反対ばかりされたものです。それでも自分にしか分からないレベルで自分は作曲が性に合っていることを理解していたので、誰に何を言われようが結局ここまで作曲ばかりしてきましたけどね。
by Alfred_61
| 2012-11-20 23:55
| 音の考察
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