演奏家と作曲家の根本的に違うところは、つまり自発発想なのか他者のアイデアをどれだけ理解できるのかという受動的な発想なのか、というところです。一見これだけならば演奏家は作曲家の発想や楽譜表記に自分のエゴも何もかも捨てて完全服従しなければいけないように見えますが、実は状況としてはその逆が音楽的に正しかったりするのです。 どれだけ技術を磨いた演奏家だろうが、世間に認められたソリストだろうが、音楽に対する誠実な想いを持たないもしくは忘れたならばその人は巷の高校生演奏者よりもミュージシャンとして劣等だと僕は思います。逆に、技術にそれほど磨かれたものや卓越したものがなくても、曲へ向かう姿勢や音楽へ向かう気持ちの純粋さを持った演奏家は世間に広く認められなくてもごく少数その場にいる人を本当に感動させることが出来ます。僕が今書いているリードオルガンの組曲は、僕の人生で出会った数少ない、そういう誠実さを持っている演奏家の為に書いているものです。 曲自体にそこまでの誠実さがない曲は、そういう演奏家には演奏し辛いですし似合いません。僕が今書いている作品も、どこまで作曲者の僕自身が音楽に対して誠実であれるか、曲に対して疑うことも悩むこともなく取り組めるかが成功か失敗かを決める大きな分かれ道になります。ジョンとはこういう会話を最近良くしていて、初期シューマンや初期ブルックナーの音楽が非常にいい例だと話しています。純粋であり誠実である音楽はただ音符や休符を追いかけるだけでは全く持って見当違いな曲になってしまいます。 曲の魂を理解するというのは決して楽譜にある情報を限界まで読み取るという意味ではありません。実は、曲の魂を理解するためには演奏家の個人的な思想や理想やその曲に対する想いというのが必要不可欠なのです。上では受動的と書きましたが、実は真に能力の高い演奏家というものは、自分自身の想いを曲にぶつけられる人のことを言うのです。これだけ見ればまるで曲を利用して自分の情熱を迸らせるように見えますが、ここで出てくるのが"誠実さ"です。ぶつける想い自体が限りなく純粋で誠実なものであったならば、曲は突然響き始めるのです。本当に音楽の不思議のひとつだと僕は思っているのですが。 では、演奏家として道を究めるためには自分自身の人としての誠実さや純粋さを磨かなければならない、ということになります。はい、その通りだと僕は信じています。何でそんなことをしなければいけないのだという人が世の中の99.995%である以上、僕の音楽が響くこともその数値分あり得ないのです。多数が正義という世界ならば、では僕はそんな世界の敵になりましょう。だからこそ、僕は自分にたとえ社会に対し出来ることがあっても、それを敢えてしないのです。目の前の人を助けることが出来るのにそれを見殺しにする、という感覚と似ているでしょうか。前回ジョンが日本に来て以来、僕はそういう作曲家になっています。 僕は自分のためには曲を書き続けています。けれども、演奏家のために、という曲はジョンや件の足踏みオルガン奏者のような特殊な例を除いてこれからも書くことはしません。アメリカで5年以上かけて研究してきた自分のテーマを卒業7年にもならず僕は根底からぶち壊したわけですが、これがまた清清しいものです。しかし音楽の真実をより深く知れば知るほど、いろいろなことが馬鹿らしく思えたり、音楽関係者とつるむことに嫌気が差したりするものです。ふらっと現れてはたまに酒飲んで深遠の話をする、という程度が僕には性に合っています。そして、少なくとも僕自身がリードオルガンやピアノやヴァイオリンやエレキベースを弾く時には、演奏家としてありのままの自分を誠実に曲にぶつけようと思っています。これが、他人に書くよりも自分で演奏したほうが良い、という一番の理由ですね。
by Alfred_61
| 2014-04-14 23:55
| 音の考察
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