僕たちの命は自然の一部として生まれ、そのサイクルに従って一時だけ存在し、そしていつか消えていき、そしてまた新しい命が生まれます。哲学者の中にはデカルトのように、肉体は滅んでも魂は生き続けると考える人がいますが、僕は何となくそうではない気がします。 僕たちの肉体というモノは滅んでも、同じニンゲンという種族は世界中で生まれ、全体の流れは留まることなく続いていきます。そして、そこに生まれる僕たちの魂、心というモノは、それぞれの命に一つずつ固有に与えられ、一つの命が終わればそれは消えていくのではないかと僕は感覚として感じます。 こういう答えのない哲学には、やはりどこかで個人の願望が含まれます。デカルトはきっと、躰が滅んでも魂は消滅して欲しくなかったのだと思います。そして僕は、魂は肉体と共に滅ぶからこそその生に意味があると思います。それは僕たちが先天的に感じる死への恐怖が一つの理由としてあるからです。 僕たちはある時に生まれ、その時点から死という終点へ向かってゆっくりと歩いている、そう僕は解釈します。死を恐れることも、拒絶することも、自ら向かえることも自由ですが、必ずそれはすべての生命に訪れる平等な自然の摂理です。僕たち日本人が古の時より自然を崇拝してきたのは、僕たちは一時に生きそして消えていく生の摂理を恐れることなく受け入れてきたからだと思います。西洋の国では宗教が、自然の摂理を受け入れられない人々の心に少しでも平安を与えるために生まれ、続いてきました。でも日本人は人の力で人の心を誤魔化すことはせず、うたかたの命に美しさを見いだしてきたのです。 命はいつか終わり、今自分が感じている自然もその感覚を失い、消えていく。今という一時は永遠ではないからこそ、そして僕たちはそれを知っているからこそ美しいのだと思います。ささやかな悲しみや、少しの憂いも含んだその心を持ち、海や山という美しい自然を見つめて僕たち日本人は微笑んできました。意識的に気付かないだけで、桜を美しく感じたり、季節の巡りに感謝をする心は、紛れもない日本人のそれです。
by Alfred_61
| 2005-11-12 16:05
| 日記
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