今学期限定で僕の学校に来ている代行教授のChinary Ung(チナリー・ウング)という作曲家がいます。ラッキーなことに作曲科の方から、指名されてレッスンを受けてくれということになり、半年間サンドストロム先生とウング先生の二人の作曲家にレッスンを受けています。本当は作曲の勉強では複数の先生につくのはあまり好ましくないのですが、幸か不幸か僕は今まで10人の先生にしばらくレッスンを受けたことがあります。もし履歴に一人だけ選んで書くとしたらサンドストロム先生ですが。 さて、昨日ウング先生のレッスンを受けたのですが、これがなかなか良いレッスンで、ちょっと気分が軽くなった気がします。この人、年齢的にはサンドストロム先生と変わらない60代前半で、出身国はカンボジアというちょっと変わった作曲家なのですが、やはりいろいろな世界で生きてきたせいか哲学もしっかりしていて唸らされることは何度もあります。ちなみにこの人が普段教えているのはかつて湯浅譲二が長年にわたって教鞭を執ったカリフォルニア大学サンディエゴ校です。 昨日の話で面白かったのは「作曲家はシャーマンなのだ」という話。自分のスタイルを確立したりするのは若年期の作業であって、60も過ぎてくるとそれぞれの曲がどういう方向に進みたいかが聞こえてくるようになるのだと。そしてウング先生がすることはそれぞれの曲の声を聴いて、それらを西洋的表記法という言語を通して表現し、他の人にも分かるように翻訳してあげることなのだと。 そしてそこでさらに深い、自分と曲の関係についての話をされました。たとえメロディーであっても和音であっても、それらは自分といわば深い恋仲の関係にあるように扱ってあげなければならないと。例えば男と女で、男であることや女であることに惚れて一緒に暮らし始めるのは、決して悪いことではないが、それを超えて魂のレベルでお互いを理解し、尊重しあえる関係こそ本物であり、なによりそこへ到達した関係は幸せそのものだと。作曲家がそれぞれのマテリアルとそういう魂のレベルで交流できるかどうかは、曲を聴いたら一般人にでも分かるのだと。そしてそれこそが"凄い作曲家"と"偉大な作曲家"を分かつポイントであり、過去の偉大な作曲家達が特別に綺麗な音を書いていた訳ではないのだと。彼らがしていたのは、他の人と同じ音と深く交流し、それらをより美しく響かせることなのだと。 そこには音楽の"魔法"の部分があり、それが人の心に届く音楽という物なのだとウング先生は言います。いくら小手先で技術を向上させ複雑なことが出来ても、人の心に響かない音楽を書けない作曲家は所詮二流だ、とサンドストロム先生も言います。幸いにもウング先生は僕のことを非常に気に入ってくれていて、3月に戻られるときには二人で酒でも飲みに行こうと言われました。今学期はそれなりに充実したレッスンを受けています。
by Alfred_61
| 2006-02-13 02:28
| 日記
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