合唱曲というジャンルは、いつの間にか音楽の主流に取って代わられた(まあ、クラッシック界だけでですが)器楽曲とは全く違う、特別な力を持っていると思います。人が声を合わせて一つのことを歌う、それだけでも響きがより崇高な音楽になっていることが伺えますが、もちろんこれらは人の声という最も感情表現に優れた楽器を使うということを基本とします。 歌いたいと思える曲と歌うとき、その音符が正しい音程かどうかはどうでも良くなります。音程が合っているかどうかをすべて確認しながら歌うような歌手がいたら、はっきり言ってその人は他の仕事を探した方がいいでしょう。歌とは正しいか正しくないかではなく、自分の中にそれがあるかないかでしかないのです。 一人で無人島で何年の生活すると、きっと寂しくて歌でも口ずさみたくなるでしょう。その時の歌は、大切にしていた物を失った悲しみを歌う時と、全く違う響きをするのです。僕たち作曲家は誰が歌うかもしれない歌を書くことがあります。僕は、独唱歌なら特定の人が歌うことのみを考えて曲を書きます。例えば先日書き終えた"海からの手紙"は、完全に僕が歌うために書かれています。けれども、次に着手している"Lacrimosa"(涙の日)という合唱曲はまた別の話です。合唱は、不特定多数の人間が声を合わせて歌う為のもの・・・もともと特定するべきは指揮者ぐらいなのです。実際、僕の曲は友人のラテン系指揮者のオバチャンのために書いています。 けれども、もちろんそこに表現されるのは僕の個人的感情で、それは決して僕が第三者的に表現するヒューマニズムであってはいけないのです。例えば、僕が個人的にどうしても理解に苦しむ、書く曲ごとに反戦のテーマや何らかの犠牲者に捧げる作曲家・・・しかも本当にそれらの悲劇を目前に見ることも感じることもしていないのに敢えてそういうテーマに固執するスタイル・・・あれはそもそも音楽ではないと僕は思います。 僕が合唱曲に選んだ歌詞は、ラテン語の"涙の日"という件。恐らく、この歌詞の意味は演奏会に際しても、ほかのパブリケーションにしても、僕個人から表記することはないでしょう。僕は涙の日という歌詞を使い、僕個人の感情をここに表現します。歌という物が一概にそうであるように、僕の表現する感情が演奏家の中で昇華されて合唱という形を取り具現化されるなら、僕はそれ以上のことを望みませんし、それに対して弊害となるようなことは絶対にしません。 まだ体調は沈んだままの日々を送っています。今日も学校は全日休みにして家でゆっくりしました。明日から"海からの手紙"の録音作業に移り、出来れば来週中にそれを終えれればいいなと思います。この歌が海を越えてかの人の所へ届くまでが僕の仕事です。涙の日とは違い、とても前向きな曲になりました。そして"海からの手紙"は僕がある意味で社会的に認知されているクラッシック作曲家という殻を破る、最初の曲になっていると思います。
by Alfred_61
| 2006-03-31 12:44
| 日記
|
ファン申請 |
||