音楽を聴く理由は人それぞれです。学術的に優れているから聴く人、他の人が知らない音楽だから聴く人、逆に周りがみんな聴いているからそれを聴く人、洋楽だから聴く人、演歌だから聴く人、知人の死に直面してどうしても聴きたくなってある音楽を聴く人、失恋の傷を癒すために聴く人、辛い自分の生活と同じ響きがするから聴く人、寂しいから聴く人、ドラッグを使ったときだけ聴きたくなるから聴く人、理由は言い出せばキリがありません。 僕たち作曲家は、良く"誰に向けてその曲を書いているのか"という疑問に苦しむことがあります。学術界に対して書くならそれなりの方法がありますし、ポップス界に向けるならばしてはいけないことが星の数ほどあります。宗教音楽なんかになっていくととんでもなく制限されます。でも昔、古典派以前の作曲家はみんな宗教音楽を書いていたんですよね。それ以外のものを書くことは問題視されていたんですよ。モンテヴェルディのような変革者もいたのですけどね。 例えば、知人の死に直面した人へ向けて曲を書くとします。そこで十二音技法や、ブーレーズなどの使うトートーシリアリズム(すべての音楽的単位に理由を持たせる作曲法)で曲を書く人はまあいないでしょう。けれどもこれらの技法は学術の世界では最高レベルの作曲法とされており、崇拝されています。せっかくブーレーズの例が出たので少し掘り下げてみると、実はブーレーズの方法はかなりメシアンが築いた作曲法を土台にしている部分があるのです。しかし、メシアンは音楽的単位に意味を持たせるという作曲法をあるレベルでピタリと止めます。ブーレーズはそこで止まらずにすべての単位に意味を持たせるに至ったのです。 僕が個人的に最も好きなメシアンの曲は、オルガンの為の組曲"L'Ascension"(イエスキリストの昇天)なのですが、これはメシアンが自分の作曲法を見いだし始めた初期の作品です。この音楽は知人の死に直面した人を癒すことが出来ると僕は思います。(三楽章の喜びの爆発は鬱陶しいだけですが。)しかし、彼の後期の作品や、ブーレーズの音楽というのは、知人の死に直面した人には聴くに堪えない音楽だと思います。なぜなら彼らはそういう人のために音楽を書いているのではないからです。 さて、しかしここで対極の例を出しますと、モーリス・デュリュフレというオルガニスト作曲家が上記の二人と同時代にパリで活躍していました。彼の作品は上記の二人とは異なり、知人の死に直面したタイプの人の為"だけ"に書かれています。彼の音楽に心を癒され、涙を流した人は相当沢山いるでしょう。しかし、想像に難くないように、それは個人的な心の癒しや補完であって、社会的にはほとんど意味を持たないのです。だから生涯に20曲ほどしか書かなかったこの作曲家が社会的に認知されることはほとんどないのです。「売れないなら何でそんな音楽を書くの?」と尋ねられると、このスタイルからは何も答えることは出来ないのが現実です。 まあ、結論で言えばこんなもの個人の勝手な主観でやるのが一番なのですよ。ブーレーズもデュリュフレも、社会の流れに影響されてそういう作曲スタイルに行き着いたわけではなく、自分が正しいと思うことをやっただけなのです。そういう意味では二人とも素晴らしい個性であり、それは比べることが出来ないと思います。そして同時に、その姿勢こそが僕が彼らから学んだことで、僕は僕の信じる音楽を書き続けていくことが、彼らに近づき、そして並ぶために必要なことだと思うのです。
by Alfred_61
| 2006-05-04 02:29
| 日記
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