音楽史なんかを勉強していると、作曲家という仕事が時代や個人、国、色々な条件で変わってきていることに気がつきます。なんだかんだ言って鬱陶しく感じていたこのクラスでこれだけは学んだことです。 例えばバッハは教会での宗教行事の為にばかり曲を書いていた・・・現代で言えば、そうですねぇ、映画監督がこうしろと言えばそれに従うサウンドトラック作曲家でしょうか、ちょっと違うかな。とにかく、バッハにとっては一般人の反応どうこうというよりも出資者の反応が一番大事だったわけで、大衆のことをそんなに考えずに好き放題書いていたのです。逆にヘンデルなんて取り上げると、彼は新しく作った曲がどんどん大衆に好かれなければ食いつないでもいけないような立場だったので、音楽的にもバッハのように学術的な側面は薄く、しかし一般人の耳に直接訴えかける音楽が多いんですね。 今の人たちが時代背景や歴史的背景を知らなければ、ヘンデルもバッハも同じ感じに聞こえるかもしれません。けれどもこの二人は全く違う立場で全く違うモノの為に音楽を作っていたのです。ちなみに、音楽史上は、作曲に個人的なエゴを強く持ち込んだのはベートーヴェンが最初だとされています。それ以前に実に1000年くらい作曲家という仕事は存在していたのですが、それまでは特定の目的のためにエゴを出さずに音楽は作られていたんですね。ちなみに、余談ですが、これはいわゆる古楽が何故現代でも喜ばれ、演奏され、聴かれるのかの理由の一つです。エゴがないんですよ、古い作曲家は。 さて、すっ飛ばして現代の話をします。現代に生きる作曲家というのは、いわゆる「職業作曲家」です。彼らはつまり注文に縛られ、その規制の中で個性を発揮して作品を残してお金を稼いでいくタイプの作曲家です。もう一つ現代の作曲家という立場があるとしたら、それはポップスだろうが何だろうがグループを作って自曲を作り演奏し、各地を回る、例えば小田和正とかさだまさしとか谷村新司とかYOSHIKIとかB'zとかそういう人たちでえす。いや、現代の作曲家と考えれば、本当の意味ではこの後者のことを言うのだろうと僕は考えます。なぜなら、職業作曲家の曲が後世に残るというのは、はっきり言ってほとんどきいたことがありませんが、ビートルズだろうがジミ・ヘンドリクスだろうが、そういう音楽は他メディアの影響を受けることなく音楽単体として後世に語り継がれ、聴かれるものだからです。 そう、僕はやっと分かってきた気がします。音楽を作るというだけでは作曲家とはなり得ないのです。問題はそれをどういう風に世間に発表していくかで、それを他メディアに依存するか、自力で(つまりは自分のパフォーマンスフォースで)発表していくかなのです。そして、僕は元々後者の"自力で"タイプの音楽人でしたし、これからもそれは変わらないと言うことです。例え今準備していることが理想的な状態に届かなくても、僕は自分の信じた音楽を自分の力で演奏して社会に発表していきます。それは院へ行こうと行くまいと変わりません。 現代の作曲家として、そこで自分のエゴを出すか出さないかというのは、僕自身が感じて決めることです。僕は他人に決められるような音楽は絶対に書きません。誰かへの感謝であれ、自分の主張であれ、それを表現するのは僕以外の何でもありません。僕がこれからなる作曲家という姿は、誰にも媚びず、誰にもコントロールされず、そして多くの人を幸せにする、そういうものです。例え自分が一人になろうとも、そのスタイルは死ぬまで変えるつもりはありません。
by Alfred_61
| 2006-12-14 11:18
| 日記
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