いざもう半年で日本に帰国することを考えながら、今日は僕が生まれ育った町に行きました。あの町に住んでいたのは生まれてからアメリカの大学に行くまでの20年間。小さい頃はあの家から自転車で行ける距離だけが僕の世界でした。それはそれで良かったし、その時の僕にそれ以上を知る理由もありませんでした。けれども、少しずつ隣の町を知り、電車で行動範囲が広がり、今となっては飛行機で世界を飛ぶのも違和感がなくなってしまいました。 昔はまだ田んぼや畑も多く、車の通りは多くてもまだ広い空が見えていたものでしたが、今となっては開発が進んでマンションやなんかの高層ビルが建ち並び、空はずいぶん狭く感じました。けれども、行き交う人の表情や沈む夕日を見ていると、ふと自分が15年前に戻ったような錯覚を感じました。変わったのは僕で、町はあの頃のままだったのです。 僕の世界が国境を越えて広がる今になって、ああいう狭い世界へ戻るかもしれないという自分を省みました。それはそれで妙に違和感が無かったのは本音です。人が生きる世界なんて、別に広くなければいけないことはないですし、考え方によれば狭い方が社会に飲まれたりせずに生きれるので快適かもしれません。少なくとも、自分は世界を見てきた、それだけは間違いないことなんだなと、記憶のままの風景を見ながら思いました。 あの頃は"世界的"とか、"インターナショナル"とかいう立場に憧れたりしました。無意味に、"アメリカに住む"ということだけで誇りに思ったり、他人より偉くなった気分になっていました。けれども、今になってそういう価値観は不思議なくらいなくなってしまいました。町を眺める自分にとっては、アメリカにいるからとか日本に帰ったからとかそういうことはほとんど意味を持たず、それよりも自分が人として純粋にどういう人生を生きたいかということしかありません。いつか死ぬ身を抱えて、それまでの時間を"生きる"ということを考えれば、自ずと自分のいるべき場所や社会が見えてくる感じはしました。 少なくとも自分が世界を見たことに、後悔はしていません。これからの生き方によれば狭い世界から出なかった自分と同じ立場や環境に収まるかもしれません。けれども、少なくとも同じ景色でもそれを見ている自分を深く理解できるようになったことは、例え死ぬ直前になってもよかったと思えるでしょう。
by Alfred_61
| 2006-12-27 19:06
| 日記
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