アメリカで音楽を勉強し始めて一番最初に驚いたというかガツンとやられて、未だにどこか腑に落ちない西洋音楽的概念があります。それは英語で言う所のTextureで、日本語に訳すとしたら"音の文様"にでもなるのでしょうか。というよりこんな概念は日本の音楽に存在しないので、直接この概念を表す言葉は存在しません。 これ、具体的には何かというと、つまりは"縦の音の絡み"のことなんですよ。和声進行という概念がある西洋音楽において、すべての声部を縦に和声進行に合うように作りながらさらに横のメロディー感も強くするという対位法という作曲技術があります。これによって作り出される音楽的な多面性のことをつまりはTextureと言うのです。多面性というのは、メロディーとコードの二面的な構成よりも音程的に発展した物のことで、3つ以上のフォーカスポイントがあることが原則となります。 それってやっぱり"西洋音楽的な"発想で、音楽の要素の中で音程に縛られすぎている文化だから生まれた概念なんですね。でも音楽の要素は別に音程だけじゃないですから、音程の上がり下がりだけで作り出すTextureという作曲上のポイントはそれに囚われてしまったら結局壁を越えられない音楽にしかならないと僕は思います。はっきり言って、こういう意見をアメリカアカデミズムで言ったら正面から否定されます。日本のアカデミズムだったらもっと酷いんじゃないでしょうか。僕はTextureを充実させるとか高等にするとかいうことに囚われず、日本音楽などが伝統的にフォーカスしてきた他の音楽の構成要素を充実させることに全力を使った曲を書いてきたから、つまりは譜面審査なんかでまともに相手にさえされなかったんです。そしてその音楽界の固定観念は未だに根強く存在します。 例えば、西洋音楽が正面から無視してきたけれど日本ではもっと重要視されてきた音楽の構成要素として"間"という物があります。敢えて音を出さない時間をとることでその前後に出される音の重要性や意味合いをコントロールするという作曲上とんでもない高等技術なのですが、Textureという視点から譜面上に表現された"間"を見ると、それは下等であるという判断をされるのです。だって、できるだけ譜面が詰まっていて複雑な文様になっている方が"より良い曲"なんですから、譜面上にちりばめられた休符はそこに音を入れる実力がなかったとか、手を抜いていると判断されるんですよ。ホント、面白いですよね~。あはは。 僕はすでにTextureという概念に音程以外の様々な音楽構成要素を取り入れています。そう言うと偉そうですが、具体的に言えば複雑で美しいTexture=より高度な曲という考え方を完全に頭の中から払拭したのです。さらに、ポピュラー音楽などにある"王道的Texture"にも縛られないように自分の中から規制を取り払っていったのです。この西洋音楽的概念"Texture"をアジア人なりの解釈で取り込んだというのが適切な表現になるでしょうか。それはつまり、洋服を日本風に着こなしてしまう近代日本文化のようなもので、自分が近代日本人である象徴だと僕は考えています。僕の音楽では、この独特のTextureがロック、クラシックを問わずに強調されていて、それが"ありきたり"の枠を軽々と飛び越える技術の一つとなっています。
by Alfred_61
| 2007-07-11 22:10
| 日記
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