憧れって、なんだか自分にとっては足枷にしかならないように思うことがよくあります。誰々みたいになりたい!とかもそうですし、誰々がすごく好きでファンだ、とかいうのも、そういうことを普段頭によぎらせるだけでどうにも自分の中で何かが失われてゆく気がします。 中学校、高校に通っていた頃は、僕はかなり憧れの強い人間でした。例えば漠然とアメリカ人に憧れていたり、それが高じて無理矢理金髪青目の彼女を作って大失敗したり、思い返すと本当に色々なことがありました。音楽では、とにかくRage Against The Machineに憧れていまして、作曲を始めた頃も彼らの真似ばかりしていました。でも、それでもすべて脱ぎ捨ててゼロから勉強してみようと思ったのも、考えてみれば僕の人間性だったのかもしれません。 バイト先の同僚が、黒人といえばムキムキのイメージがある、と言っていました。でも、当たり前ですが黒人すべてが自然にそういう体つきになっていくわけではなく、小柄な人も小太りも当たり前のようにいるわけです。それでもイメージとして黒人=筋肉質となるのはどう考えてもその黒人がムキムキになる為に日々積み重ねてきた努力をないがしろにしている、ともその同僚は言っていました。 憧れって、どうしても完成型への直接的な感情になりやすいですよね。生まれたときからその歌手が人並み外れた歌唱力を持っていたり、最初から自分を着飾り綺麗に見せる能力を持っていたような、そんな錯覚ってあります。つまり、"お母さん"がまるで生まれた時から"お母さん"という生き物だったような感覚です。テレビに出ている人は"テレビに出ている人"という、自分とは違う人種で、言ってみれば生まれつき魔法使いであるような、そんな風に僕も昔は思っていたものです。 でも、そんなわけないですよね。テレビに出ている人たちが、テレビに出るためにやってきた何年何十年に渡る努力が、どうしても見えないんですよね。それを見て、"あれいいなぁ"とか思って、苦労もせずに成功することを何の根拠もなく信じたのが僕の10代のほとんどでした。まあ実際にアニメや漫画では若くして苦労も知らずに超自然的な力や才能を持っているキャラクターが沢山出てきますからね。なかなか漫画で挫折ばかりの主人公を書いているのはないですよね。 アメリカで修行をしてきて一番良かったことは、自分の中に根付いていた憧れの習性を払拭できたことです。今は、僕は正直なところ他者の芸術に感動することはあっても、そのファンになることはあり得ません。自分にとっては、完成像のすばらしさより、それを作り上げていく課程の方がよっぽど感動できるからです。完成がどうなるかよりも、今自分ががんばって何かを作ろうと努力していることこそが快感で、人生の喜びです。 だから、例えば電気屋で買い物をするときなんて、僕は昔のように値切ったりしなくなりました。だって、僕に応対している店員がその仕事でご飯を食べている具体的な内容が見えてしまうからです。いくら高い目に値段を設定しているとしても、僕は敢えて騙されて買ってやることが、たまにあります。そういうこともないと、その人も楽しくないでしょう。 野球選手やアイドルを見ても、昔とは違って"可哀想"に思えることが増えました。なぜなら、明らかに回りのビジネス目的に踊らされてパペットになっている姿が見えたり、それしかしてこなかったから人としての人生の楽しみ方を知らないのが分かってしまったりするからです。しかも世の中の99%がお金で回っていることを考えると、本当に悲しくなります。あんなパペットがどうしてあんなに輝いて見えたのか、もう昔の自分にはなれないので理解できないのですが。
by Alfred_61
| 2007-10-21 01:54
| 日記
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