日本語は視覚的言語だと言われますが、漢文から独立し始めてから現代口語になるまでの間はその音韻的響きも本当に良く考えられていた作品があると、僕は個人的に感じています。鎖国政策の終わりと共に外国の言葉が流れ込んできましたが、最初は何でもその意味をくみ取り、的確な日本語をそれぞれの言葉に与えていましたよね。和訳という形で全く別の芸術形態を持っていたような、そんな感覚があります。 昔京都で活動していたアマチュア合唱団に僕がいた頃、"Believe Me"というアイルランドの民謡を合唱に編曲したものを歌ったことがあるのですが、その和訳が惚れ惚れするほど素晴らしい出来で、今でも何度も読み返します。訳者は堀内敬三という人になっているのですが、個人的にはこの方のことは全く知りません。邦題は『春の日の花と輝く』です。 うるわしき すがたの いつしかに褪せて うつろう 世の冬は 来るとも わが心は 変わる日なく 御身をば 慕いて 愛はなお 緑いろ濃く わが胸に 生くべし 若き日の 頬は清らに わずらいの影なく 御身いま あでに麗わし されど 面あせても わが心は 変わる日なく 御身をば 慕いて ひまわりの 陽をば恋うごと とこしえに 思わん というものなのですが、英語で言うと不躾に聞こえる言葉が巧みに隠され、しかし音楽のピークに伴ってストレートに想いを言葉にするその真っ直ぐさが、本当に胸に響く作品だと思います。本当にいつかこの訳詞を使って歌を書きたいくらいです。まだ版権やらなんやらを調べるほど気持ちが固まっていないので構想だけにとどめてありますが。 いやしかし、日本語は何と美しい言語でしょうか。最近耳にする歌はとにかく言葉の使い方が下手くそで、言の葉が全く広がらない形骸、つまりはハリボテの歌詞なんですよね。表面的なことばかりで中身が全くないのです。韻を踏めばそれで作詞者の仕事が終わっているようなお役所仕事的な音楽に対する姿勢があまりにも明確に聞き取れるので、最近はテレビを見るのもラジオを聴くのも本当に疲れます。出来ることなら僕の周りにそういう雑音を流さないで欲しいと切に願うのですが、都会に生きる宿命から逃れることは出来ないようです。もうそういう雑音は耳に入っても脳に残らないようにこちらが変わっていくしかないんですよね。 倭の文化はやはりあるべき形で表現するべきだと僕は思います。西洋の猿まねでは、突き詰めれば突き詰めるほど無理が生じてくるんですよね。幕末から明治初期にすべての外来語を日本語に"訳"していたあのスタイルは、もう一度学び直さなければならないと僕は思います。まあ、僕が音楽でやっていることはまさにその通りのことで、西洋文化が年月をかけて作り上げてきたものを道具として使って倭の文化を表現しているんですけどね。
by Alfred_61
| 2007-12-29 21:29
| 日記
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