例えば"異国を想う"というだけのテーマだとしても、それをさらに詳しく規制していってピンポイントで自分がこれだと思えるイメージや感覚を自分の中で作っていくことは創作活動における基本中の基本だと僕は思います。テーマが決まっていてもその内容が大雑把であればあるほど作品のフォーカス度合いが下がり、それを視聴する側には作品に込められたメッセージが伝わりにくくなります。 とはいえ自分の世界とは夢の世界と同じで自分が今まで生きてきて経験したことのあることしか選択肢として存在しない所なんですね。だから、例えば日本を一歩も出たことのない人が、遙か南の小さな島国から祖国日本を想う、なんて感覚を想像することさえできるはずがないのです。想像できない以上、それをその人が作品の中で表現することはできません。偶然できた作品が他人の耳にはそういう感じに聞こえる、なんてことは、はい、あり得ないのです。 音楽の不思議な所ですよね。自分の才能以上の物が偶然生まれる、ということは音楽の世界ではないんですよ。良く僕の周りにも誤解をしている作曲科生がいましたが、パズルのように適当に音符を譜面上に書いてみてそれを演奏してみ、それがイマイチなら違う音に書き換えて同じ作業を繰り返していると、いつか偶然素晴らしい響きができることがある、なんて信じているんですよ。 なぜそれが眉唾ものかというと、つまり音の響きが良いか悪いか、さらに突き詰めればその響きが自分の表現したい物であるかそうでないかを判断するのは誰でもない作曲者自身でしかないからです。これはあんまり言うと曲をかけなくなる人が出てくることですが、俗に言う機能和声、つまりドミソの和音、メジャー・マイナーコード、三度の和音というものは、ずっとそればっかり聞いているとどんなメロディーにでもその下にまるでコード進行が響いているかのような幻聴を引き起こすんですよ。だから、三度の和音でできた曲ばかり書いていると、それ以外の和声法を耳が受け付けなくなってくるんです。上の話に絡めて言うと、つまりパズルのように無作為に和音を弾いても、それが三度でなければ自分の耳が"良い"と感じなくなってくるんです。つまり、絶対に三度でなければ音楽ではない、なんてバカなことはないはずなのに、自分が書く曲がどれもこれも三度になってしまう、ということです。 最初に書いたピンポイントイメージの構築という視点でこれを捉えれば、つまり"異国を想う"というテーマから自分しか感じられない固有の感覚へイメージを絞っていく際に、三度の和音という縛りが自動的に作動し、それによって自分の感覚が三度のイメージへと無意識的に流されていくということです。これは完全に自分の心理をコントロールすることに失敗している例で、そういう作曲の仕方をしている限りは何年続けても、いくら周りの人が凄いともてはやしても、いつになっても自分のオリジナルな音楽を作ることはできません。あんまり三度を悪者のように言ってもどうかと思うので、ここには"三度は悪者である"と無理矢理自分に思いこませて、逆に自分のイメージ構築をオリジナルから遠ざけているなかなかアホな作曲家も現代には沢山いるということも言及しておきます。 ストラヴィンスキーの言う"作曲とは規制である"というのはつまり僕がここで言う"ピンポイントイメージの構築"という作業を意味します。けれども、その"規制"作業において、自分の心理をどれだけ"規制から自由にすることができるか"、というのが今日のポイントである心理コントロールです。規制の仕方なんて相対的な物で、絶対的な方法論は存在しません。12音技法や機能和声法のような絶対的理論で縛るということは、作品の質を一定化させると同時にオリジナリティーを軽減させる効果に繋がります。 つまり、この作業を自由に行うことができるようになるためにするべき勉強とは、社会勉強であり道徳であり旅行であるのです。つまり、人生勉強ですね。そして、最初からやる気の腰を折るようですが、ちなみに自分の心理を完全にコントロールすることは、人間にはできません。それは度合いの問題でしかなく、50歩逃げたか100歩逃げたかの違いでしかありません。けれども、音楽の勉強、音楽での精進とは死ぬまでどれだけ遠くまで逃げられるか自分を磨き続けることで、完成や到達というものが存在しない分野なのです。偉そうに理屈をこねる僕自身も、まだまだ自分をコントロールしきれていません。もっと勉強しないと。
by Alfred_61
| 2008-01-17 15:00
| 日記
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