空を飛べる天使がいたとします。僕は音楽が作れます。きっと僕は空を飛べる天使を羨ましく思います。けれど、きっと天使も音楽を作れる僕を羨ましがると思います。生で僕の曲を演奏すると、その場には科学的に計測できない特殊な現象が発生します。科学的な数値で計測できないから、僕はそれを魔法と呼んでいます。音楽には魔法があって、それが作れる作曲家と作れない作曲家がこの世にはいます。 けれど、残念ながらこの世の中、この社会においてその魔法が使える作曲家が必ずしも成功し、ゆとりのある生活が出来、周囲から尊敬されるかというとそうではありません。逆に、周囲から尊敬されようとか、ゆとりのある生活をしようとかそういう具体的な目的がある場合はそういう音楽を書くことが実際に可能です。けれども、それらの目的を満たしたからといってその音楽に魔法が宿っているかというと、それもそうとは限らないのです。僕の感覚では、そういう邪念を持った音楽には魔法が宿っていないことが多いように思います。 空を飛べる天使にとったら、きっと空を飛ぶということは日常の一部でしかなく、それが特別な能力だとは感じないでしょう。空を飛ぶことが出来ない立場から見るからこそ空を飛ぶということは凄いことであって、羨ましいことなのです。けれど、世の中は目に見えるものだけではありません。科学で証明できないことなんてこの世界には沢山あって、その一つが音楽です。ただ、科学で証明できないからこそその価値も社会的にはあまり認められておらず、音楽を作ることが出来る能力なんかは大抵不当な扱いを受けます。 そう、"音楽を作る能力"は不当な扱いを受けるのに、"目的に応じたものを作る能力"は認められるんですよね。本当に不思議です。そんな社会にいると、まるで社会に認められるということが実質的な内容の不純さや悪性を意味しているように思えてきます。結局価値を決めるのも人だということです。そこには必ず主観が影響し、純粋に物事を審査するようなことなんて、そもそも人間には出来ないことなのです。ましてや音楽を審査するなんて、傲慢も甚だしいです。 空を飛ぶことは出来ても音楽で魔法を発生させることが出来ない天使から見ると、きっと僕がやっていることは凄いことに思えるのでしょう。それはちょうど空を飛べない僕が天使を凄いと思うように。価値観なんてまったく実質の意味とはかけ離れたところにあるものです。英語を喋れることを凄いと感じる日本人と同じです。「外国人は全員外車に乗っているから全員凄い金持ちだ」というのと同じです。本当に価値観なんてバカらしく、無意味なものです。 僕には空を飛ぶことは出来ません。だからこそ空を飛ぶことには憧れがありますが、きっと実際に空を飛べることが当たり前になってしまえばまた自分に出来ないことに憧れるようになると思います。自分が当たり前のようにしていることも視点を変えれば"凄い"ことになるかもしれません。僕は、本音を言ってしまえばそういう価値観のズレには本当にうんざりしています。他人に認められることなんて本当にちっぽけで薄っぺらな栄光であって、そんなものがいくらあっても本当に良い音楽を作りたいという僕の欲求を満たすことは絶対にないわけで、そういう本質的な部分は絶対に見失いたくないと思います。それこそ、どうしようもなくなって自殺する結果になっても、それでも良い音楽を目指すことを自分の人生が終わるその時まで続けていきたいと、そう純粋に願います。
by Alfred_61
| 2008-02-19 04:17
| 日記
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