歴史は基本的に変えることの出来ないものです。でも、人の残した記録という意味ではいくらでも歴史は書き換えることが出来、それこそ歴史的な事象を受動した個人の視点によってその歴史をあるがまま意志や価値観の介入なしに記録することはそもそも不可能なのです。これが地球、言わば大自然の視点で記録された場合の歴史を、アカシックレコードと呼ぶのです。 けれども、歴史として過去という時間軸上に起こったことは絶対に変えることは出来ません。起こったことは起こったことです。それを起こらなかったことにしようとしても、その歴史を感覚してしまった時点でその個人の中でその歴史を否定することは絶対に出来ないのです。何の話をしているかというと、つまり自分が誰なのかということです。 アメリカにいた頃、沢山の韓国人の友人がいました。彼らは20歳を超える辺りまで韓国で育ち、それからアメリカに来て、自分たちは韓国人ではなくてアメリカ人だと主張するようなことを平気でするのです。特に韓国人作曲家たちは、ひたすら自分の作る音楽から"アジアっぽさ"を丁寧に取り除いていくのです。これを、僕はどうしても理解することが出来ませんでした。 生まれたときからアメリカに住んでいたのなら、その人は別に日系だろうが韓国系だろうが黒人だろうが白人だろうがアメリカ人でしょう。でも、その人の歴史、つまり今という時点までどういう文化で生きてきたのかという歴史を絶対に変えることが出来ないために、やはりアメリカ生まれのアメリカ人とアメリカへの移民とでは個人のアイデンティティが違うのです。 別にアジアっぽさを否定することは悪いとは思いません。でも、別に自分が育ってきた韓国文化をまともに勉強もせずに知りもせずにそれを否定して、アメリカの地に降り立ったときに自分というものが生まれたのだと考えるのはどうしても間違っているようにしか僕には思えないのです。僕がお世話になった作曲家の一人にChen Yiという中国人のオバチャンがいますが、この人はもうアメリカ永住権を得て、書く曲もはっきり言ってアメリカンです。でも、この人は自分の生まれ育った文化、フォークロアや民謡童謡をひたすら勉強してその上でアメリカっぽい曲を書くんですよ。それがあるべき姿だと僕は思うのです。この人は自分が中国人であることを否定してはいませんが、あれだけ勉強して敢えてそれを否定するならそれは凄いことだと思いますし、尊敬できることだと思います。 けれども、ろくに知りもしないで、しかも絶対に変えることの出来ない自分という人間の歴史を意固地なまでに否定するのは、やはり僕は絶対にしたくはありません。それこそ、英語のネイティヴの人には、非英語ネイティヴがいくらがんばってもなることが出来ないのとこれは同じことなのです。ネイティヴにしか分からないこと、感覚出来ないことって個人が想像できるような矮小なものではないのです。自分を知ることなくして自分を否定することは出来ないと僕は思います。否定するかしないかなんて個人の自由ですが、それ以前に自分を知ることがなくては、作曲のような芸術で聴く人を騙すことなく誰かの心を揺さぶるようなことって、絶対に出来ないと僕は思います。
by Alfred_61
| 2008-04-22 15:56
| 日記
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