日付が変わって今日、僕としてはこれから眠って明日となるのですが、今日は僕の誕生日です。今年でもう27歳になります。さすがにもう立派なおっさんです。きっと同世代の大半は結婚していたり下手をすると子供が二人くらいいたりするんじゃないでしょうか。まあ僕からは遙か遠くの世界の話ですが。しかしまあ振り返ってみると、26歳という年は本当に長い一年でした。色々なことがあって、色々なことに挑戦して、どれもこれも思い通りに行かなかったようなそんな一年でした。27歳はどんな一年になるのでしょうね。 さて、今日のトピックですが、物事に対する"答え"に関して僕が思うことを書きます。数学や社会的な多くの問題には、決まった一つの"正解"があって、それに辿り着くことが生きる目標であったりします。だから、自分よりも目上の人や、立場上責任を持てる人に、「この問題、答えは何でしょうか?」と尋ねるのはまあ賢い生き方だと言えるでしょう。なぜなら他人に答えを聞いて確かな"正解"を実行することが出来るなら、社会的に自分が非難されることもなく、しかもそれを効率よく続けていれば社会的に自分の評価はどんどん上がっていきます。 でも、人生にちりばめられた数多の"問題"には、どれにも確かな一つの"正解"ってあるのでしょうか?僕は、正解というものが存在しない問題の方が、世の中には多いと思います。そういう場合には、色々な人がそれぞれの意見を出し合い、その中で一番ベターだと思える答えを社会的に採用したりしますよね。でも、もしかしたらそれよりさらにベターな答えを誰も思いつかなかっただけで、実はそういう答えがあったのかもしれません。 はっきりと言います。僕は、人生の"答え"とは自分自身の力で常に見つけてゆくものだと信じています。例え他人に聞けば所要時間を短縮できる事柄でも、自分で考え、自分で導き出した答えというものと、他人に与えられた答えとは実際にその内容が同じであってもその価値は全く違います。自分で考えるた答えは、オリジナルと言えるんですよ。けれども、他人に与えられた答えはただの他力本願で、言い換えれば空っぽの自分を露呈していることにもなります。 例えば、芸術、僕の場合は音楽ですが音楽には基本的に答えはありません。よく音楽大学や偉い先生のレッスンとかで"ベートーヴェンはこう弾くものなのよ"と教えられますが、そんなもの正解でも何でもないただの一可能性でしかありません。本当は、自分自身がベートーヴェンの譜面と向き合って、自分自身が考えて見つけ出した"答え"を演奏するべきなのです。そうしなければオリジナルな演奏なんて出来るはずもなく、現代クラッシック演奏家に良くある技術的にはパーフェクトなのに魂のこもっていない、と言うかきっと込め方の知らない演奏になるんですよね。 それが、例えば僕の曲とか、もしくは自分の演奏が世界初演になる曲だったらどうでしょう。そこで、作曲者が生きているからその人に"正解"を与えて貰ってそれ通りに演奏することが本当に正しいのでしょうか?それは、本当に自分にしかできないオリジナルの演奏になり得るでしょうか?それは疑問にしか僕には感じられません。 僕は音楽のことばっかり言いますが、例えば子育てだったり、恋愛だったり、そういう"正解"のない世界ではやっぱり自分がどれだけ深く考えられてどれだけ自分らしいオリジナルな答えを導き出せるかが、結果的に自分らしく充実した人生を生きることに繋がるのではないでしょうか。そして、最後に言及しておきますが、僕はAさんが出した答えとBさんが出した答えは、それぞれどちらがbetterもしくはworseだとは思いません。それぞれにそれぞれの意図や思いがあってその答えを導き出したのですから、ベターな方に合わせることなんて必要ないし、社会的な"正解"に必ず従わなければいけないということもないと僕は思います。本物の"オリジナル"というものは決して比べることが出来るものではなく、それらは単にdifferentな個性なのです。比べてしまって劣等感や優越感を感じてしまう心にこそ悪魔が巣くっていると僕には思えます。自分にしか生きられないオリジナルな人生を生きようとするならば、まずはその悪魔を退治することが第一歩なのではないでしょうか。
by Alfred_61
| 2008-05-15 01:06
| 日記
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