今、今年の夏に結婚する友達の為に曲を書いています。相も変わらず、普通の作曲家ならン十万もの作曲料を要求するところを無償で僕は今回の作品を書いています。しかしながら、今回は親友の頼みともあり気負っているせいか、どうしてもこれだと思えるほど世界観が固まってこないのです。冠婚葬祭には、どうしても裏の面がつきまとい、一様に単純な薄っぺらい感情を表現するのは、どうしても僕には躊躇われるのです。 例えば、人の死を単純に不幸と考えるのを僕は理解できないように、結婚にも単純な幸せや華やかさ以上に深い感情の螺旋があります。常に楽しい音楽を作ったり演奏したりすればそれで良いかというとそうではありませんし、逆も又然りです。大人になること(冠)、誰かと愛し合うこと(婚)、他人もしくは自分が死ぬこと(葬)、そして悲しみや喜びやその他色々なものの為に催される祝い(祭)、それらはどれもとても大きなテーマで、そして人として生きる以上は誰しもが避けては通れないものです。 幸せは常に悲しみと隣り合わせです。平和すぎる国の国民が必要以上にテロリズムを恐れるのは、その国の幸せがどれだけ悲しみへの可能性を持っているかを顕著に表します。逆に、ずっと辛いことや悲しいことに苦しんできた人達には、何故か人知の及ばない形、まるで神様の意志のような形で赦しが与えられます。人生とは常に悲しみと喜び表裏一体の綱渡り。どちらへ転ぶかは、自分が誠実な生き方を続けていようが特にコントロールできるものではありません。 音楽という芸術は、いつも悲しみと喜びの二つを内包していると僕は考えています。児童文学はすべて子供向けの薄っぺらい著作だとか、アニメーションは現実逃避の道具でしかないとか、そういう風に固定観念で世間を見ることは本当に分かりやすくて生きやすいでしょう。実際、世の中の大半はそういう風に社会の事象や芸術や文化を見下げ、それによって自分の立ち位置をせめて安定しているように自分に思いこませます。音楽とはただの遊びだと、やはり多くの人はそう思うのです。それが仕方のないこととはいえ、僕たち音楽家がそういう社会層にだけターゲットを絞って利益追求型の創作活動を行えば、社会全体が堕落へ繋がってしまうということを、僕たちはしっかり認識していなければいけないと僕は思います。 自分とて明日には死ぬ身かもしれない脆弱な魂。今を生かされていることに感謝と不幸を同時に感じ、それでも何かを人々に伝えようと音楽をしています。社会的にはどうしようもない自分ですが、その立場からでしか見えない世界を今も表現し続けています。今の僕の立場から、これから結婚する二人に対して思うことを脚色装飾せず、ありのまま表現しようと思っています。
by Alfred_61
| 2008-05-29 20:49
| 日記
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