良くいうのは"時代が求めるものを作れ"。実際歴史を遡っても、その時代の人々に好まれ必要とされるものを作った人が成功者として名前を残しています。芸術作品も、やはり時代が求めたものを作ればそれは無名の画家でもさりげなく小さな美術館の片隅に残されていたりします。 一番インパクトの強い例はフィンセント・ファン・ゴッホでしょう。彼の芸術は、彼が生きている間はいくら描いても認められることはありませんでした。かの有名な『ひまわり』という絵はなんと長い間鶏小屋の鶏用出入り口の柵として使われていたそうです。今では何億円という価値がつく芸術も、社会からの需要がなければそういう扱いを受けるという良い例です。で、生きている間に認められることが絶望的だと感じたゴッホは37歳で自分を猟銃で撃って自殺します。彼の死後100年以上経って、彼の作品は何百億円という価値で取引されるようになりますが、本人がそれを知ることは当然無かったわけです。つまり、彼がそういう恩恵を受けて金銭的にも精神的にも潤うことはなかったのです。 もう始めて二週間になる結婚式披露宴でのDJの仕事なんて、そんな現場で求められる技術や知識というものはこれまたマニアックなもので、今の時代だからこそ需要のある分野なんです。僕が5年間アメリカで勉強してきたオルガン演奏法なんて、神道仏教系が大多数の日本国ではほとんど需要そのものがない分野で、そりゃあアメリカの片田舎に行けば僕はオルガンを演奏して食べていけるかもしれませんが、日本では宝の持ち腐れそのもので、もう腐りきっています。今の時代はシステムエンジニアの需要が高く、ネットワークやプログラミングの技術を持っている人は簡単に仕事が見つかります。ま、今日は芸術の話をしたいのでSEの話はいずれまたにします。 社会的に必要とされるからその分野をのばす、それって本当に芸術家として正しいあるべき姿なのでしょうか。突き詰めればなんのために自分は生きるのか、ということにもなります。お金を沢山稼いで余裕を持って家族を養い生きることが目標ならば、社会に必要とされることを積極的に取り入れていかなければいけませんよね。でも、それこそSEの話と同じで、自分が"生きる"ということを放棄してまでそれは求めるべきものなのでしょうか。特に芸術家としては、"良い作品を作ること"こそ本当は生涯をかけて挑戦すべきことなのではないでしょうか。それこそゴッホのように、本当に生涯をかけて。 まるで世の中ではお金が儲かることが偉いみたいな感覚があります。そりゃあ世の人すべてがそれを否定してしまえばそもそも資本主義社会なんて存在できなくなります。だから僕が言うことを出来るだけ多くの人が信じるべきではありません。でも、僕が言いたいのは真理の部分で、社会的政治的信条ではありません。認められてお金が余るほど手に入って好きなことが出来る、そんな人生を得るために芸術をするのは、僕は嫌です。僕にとって音楽はそんな下らない目的の為の芸術ではありません。 ゴッホの芸術は、彼の生きている時代には全く需要のないものでした。けれども彼は誰も見向きもしない自分の芸術を極め、極めてしまったので生きる理由がないからさっさと自殺しました。彼の生き方の善し悪しをジャッジする権利は僕たち他人にはありません。ただ、僕は一芸術家として彼の人生に非常に強い共感を覚えます。売れるから芸術するのではなく、ただ良い作品を追究して死んでいった彼の生き方はある意味最高の芸術家のものと言えるのではないでしょうか。 ただ、やはりどうしても言及しておかなければ行けないのは、商業作曲家のような人たちがいなければ芸術作曲家の人たちが光らないという事実もあります。お金の為ではなく芸術をする生き方を芸術家志望の若者すべてが実践してしまったら社会が大変なことになってしまいます。僕のような生き方をするのは社会のごく少数でなければいけないんです。これが所謂"理想と現実"ってヤツです。理想を生きることはいつの世も非難を浴び蔑まれ否定されますが、理想を追う人間がいなくなれば文化も先へは進まないのが事実です。僕もゴッホのように人生の中途で自分の芸術を極めることが出来ればさっさと自殺でも出来るのですが、はてさてどうなることやら。
by Alfred_61
| 2008-06-23 18:39
| 日記
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