他人と"うまくやる"ことは、その人を理解することと同意義ではありません。その人と、楽しくおしゃべりをして、冗談を言い合って、小さなことに一緒になって笑って、一緒に泣いて、そういう状況はつまりその人と"うまくやっている"だけで、決してその人を本当に理解しているワケではありません。 恋人同士になって、結婚して家庭を持って、その小社会の中で"うまくやる"ことを続けても、それはその小社会のメンバー一人一人を理解しているわけではないのです。まるで、喧嘩をしないことが良い関係のように社会では言われます。まるで、何のほころびもなく続いていく関係こそが理想だと社会では言われます。けれども、それは本当にそうなのでしょうか?僕はどうしても疑問に思ってしまいます。 明るく言葉を交わすことが出来れば、それは本当に"良い"人間関係でしょうか。特に大きな問題もなく普通に交流しているだけで、それは本当に"良い"人間関係でしょうか。僕は違うと思います。旦那は表で働いてお金を稼いで家族を養い、奥さんは旦那や家族の身の回りを世話して、そんな日々を続けることが本当に幸せな人間関係なのでしょうか。残念ながら、僕はそうだとは思いません。 社会的に"仲良く"やっていても、その人のことなんてどうせみんな理解していないのです。他人を理解してあげることなくして、何が"良い関係"でしょうか。片腹痛いです。相手のことを本当に思うなら、、相手のことを本当に理解できるなら、本当は表面的な"なれ合い"が相手を冒涜し侮辱する行為であることくらい明白なのですけどね。 人と人とは、近くなればなるほど遠ざかるもの。本当にその人を理解し、その人と良い関係を築いていけば、どれだけその人が自分とは違っていて、自分から遠い存在なのかを人は理解するものなのです。恋に落ちることも、家族を愛することも、本当はそういうものなのです。けれども、そういう真実から目を背けてただ問題事や結論を先延ばしにして今という時間さえしのげれば"良い関係"だなんて、本当に笑わせてくれます。出来れば、そういう人は僕には関わって欲しくないものです。 違いを理解し、その"違う"という奇跡を尊重しあってこそ、本当にその人を理解しているということなのではないでしょうか。自分の欲求と相手の反応が食い違ったら、そこには本当ならば尊敬が生まれなければいけないのではないでしょうか。それなのに人は腹を立てたり不快に感じたり拗ねてみたりします。そういうのを目の当たりにする度に僕の頭の中の常に冷静な部分が、そいつとはまともに付き合うな、と言うのです。ただでさえ他人を理解することは多くても他人に理解されることは極端に少ない僕ですから、そんな下らない人間の相手をしている暇はありません。
by Alfred_61
| 2008-07-29 21:50
| 日記
|
ファン申請 |
||