6月末からほぼ毎日梅田駅を通っているのですが、どうも最近よく見かけるものがあります。それは所謂行き倒れで、エスカレーターの途中で倒れる人、電車を降りたところで座り込んでしまって動けない人、地下道を往来する大勢の人の中で突然ばたりと倒れて気を失う人、季節柄もあるでしょうがこの数が結構多いのです。大抵は僕が見つけたときには担架が運ばれてくる最中だったり、すでに機転の利くお兄ちゃんが救急車を呼んだりしている時なので僕自身が救助に参加することはないのですが、ああいう光景を見ていると色々と考えることがあります。 もちろん一つには、明日は我が身かと思うことがあります。実際僕は中学生の頃に電車を降りたとたん動けなくなってしまったことがありました。今もし動けなくなったらきっと僕は二度と立ち上がることが出来ないだろうと思いながらそれこそ綱渡りをするように落ちそうになる意識を必死につなぎ止めながら3時間もの道のりを帰宅したこともありました。 そして次に、やはり死は僕たちのすぐ側に常にあるものなのだということです。今日を問題なく生きたから、必ず明日がやってくるなんて考え方はどうにも安直で僕には出来ません。例え今自分が倒れると路頭に迷う人が何人もいるとしても、それでも人間死ぬときは死ぬわけで、そういうのをきっと運命と言うんだと僕は思います。 ただ、運命とは確かに過去を振り返って初めて定義されるものですが、時計の針を送らせることは出来なくても進めることは出来るのです。自分が死ぬまでの時間を延ばすことは簡単なことではありませんが、縮めることはやろうと思えば誰にでも出来るわけです。実際、誰も自分から望んで町中で行き倒れているわけではなくて、あの人達は生き急いだ結果ああいう風に自分のコントロールを超えた場面でバタリと倒れるわけです。 そういう人生を肯定するつもりは僕にはありませんが、否定するつもりもありません。ただ、前へ向かって生きる姿には敬意を感じます。そして、死を意識することで自分が見失っている物事の本質を確認することにも繋がります。お金や地位や権力や栄誉なんて、はっきり言ってもし明日僕が街を歩いていて行き倒れるなら全く意味を持ちません。宝くじに当たろうが、馬券が当たろうが、他人に認められようが無意味です。じゃあ自分が生きているのはどういう意義を求めているからなのか、もう一度考え直すことは人生を自分らしく生きるために必要なことだと僕は思います。街角に溢れる日常の風景は、そんなことを僕に感じさせました。
by Alfred_61
| 2008-08-06 22:08
| 日記
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